2024.11.22
作家名
2024.11.22
斎藤義重(さいとうよししげ)は、昭和期戦前戦後を中心として、日本の前衛アートを支えた人物です。
斎藤義重は、学生のころ、「ダダイスム」であったり、「構成主義」に影響を受けて、楕円、矩形の合板を使用した平面アートを創造し続けてきました。
また、晩年になってからはインスタレーションの立体アートに挑戦するなど、彼は一貫して、抽象的表現の可能性を追い求めてきました。斎藤義重の描くアートは、世界的にも高く評価されています。
また、1964年には多摩美術大学の教授にも就任し、関根伸夫や菅木志雄を育成し、後世の芸術家にも大きな影響を与えます。
1904年、斎藤義重は、青森県弘前市に誕生します。
父親は、陸軍の軍人であり、父の赴任にともない、関東圏を転々と移住します。
1917年には、日本中学校に入学します。斎藤義重は、小さいころから、父親の書斎にあったヨーロッパの建築や絵画などに大きな関心を示していました。そして、中学時代には、自らがアートを制作することをはじめています。
彼は、セザンヌやゴッホの影響を強く受けて、油彩の風景画や人物画を積極的に描いてきました。
しかしある日、斎藤義重はダヴィド・ブルリュークの作品を見て大きな衝撃を受けることに。
ダヴィド・ブルリュークは、1910年代に隆盛したアヴァンギャルド芸術の潮流で、ロシア未来派の父とも呼ばれている人物です。
斎藤義重は、ダヴィド・ブルリュークのアートと出会うまでは、
「絵というものは見たものをそのまま描くものだ」という認識がありました。しかし、ダヴィド・ブルリュークのアートにあるのは、そのような観念の根本的否定です。
こんなアートの在り方が存在していたのか。
それから斎藤義重は、アートへの向き合い方を大きく変えることになります。
「構成主義」とは、ロシア革命による社会変革にともなってモスクワで起きた前衛的アート運動のことです。芸術で社会改革を試みた運動です。特徴は、反伝統的であったり反情緒的であり、純粋な正方形や立方体などと言った図形を重視し描きます。
また、「ダダイスム」とは、第一次大戦の終焉近くスイスから起きた芸術の主義です。既成する秩序であったり常識に対しての否定や、攻撃、破壊を特徴とします。
世界は、いち早く既成を否定するモーションに熱くなっていました。斎藤義重は、その熱風に酔いしれたのです。それと比較すれば、今まで彼に当たり前に浸透していたただ見たものを描くだけのアートは、静寂のアートにすら感じます。またそれは、非力なアートであるのかもしれません。
斎藤義重は、1931年、第18回二科展にレリーフ状の「トロウッド」を出品しようとします。
しかし、出した作品は、絵画部門、彫刻部門どちらにも受け入れてもらうことができず、結局持ち帰る羽目になってしまった。というエピソードが残されています。そのエピソードは、斎藤義重がすでに既存しているいどのジャンルにも属さないアートと向き合っていたことを意味します。
斎藤義重は、1933年から1935年の間、古賀春江や東郷青児らによるアヴァンギャルド洋画研究所に在籍し、より構成主義であったり、ダダイスムの世界を追求していくことになります。
斎藤義重の生きた時代、戦争という大きな障壁が立ちはだかり、斎藤義重自身徴兵は免れることができたものの、空襲でそれまでに制作してきた作品であったり、小説の草稿であったり、ノートなどを全て焼失してしまう被害に見舞われます。まるで、斎藤義重のアート意欲は、そこで断ち切れてしまったかのようです。
しかし、戦争が終焉し、再び斎藤義重はアート意欲を呼び起こし、戻ってきます。
彼は、1954年に病気を患って療養生活を送ることになりますが、その後、1957年第4回日本国際美術展において「鬼」を出品し、高い評価を得ることになります。
「53歳の新人あらわる」ともてはやれることに。また、すでにそのとき斎藤義重は、53歳という年齢に達していたのです。
斎藤義重は、その後意欲的に作品を世に送り続け、次々と国際的評価を積み重ねていくことになります。
1960年の第3回グッゲンハイム国際美術賞展では優秀賞を受賞、また、1961年第6回サンパウロ・ビエンナーレ展では、「作品7」を含めた13点を出品、国際絵画賞を受賞します。
斎藤義重のアートに対しての世界観は、様々変化していきます。
戦前彼は、白い合板の上に、赤であったり黒などと言った単色合板を重ねあわせたレリーフ状のアートを制作します。
1960年代になって、斎藤義重は、ドリルを使って画面を掘り込む平面アートを手掛け、さらに、ペンチやクレーンといったラッカーで色付けした合板を組み合わせたアートへとシフトしていきます。
70年代には梱包に使用する長い板材を組み合わせた「反対称」を発表、80年代にはブラックに塗られた様々な形の板材を連結した「複合体」を発表し、様々な新しい仕掛けに挑戦してきました。
斎藤義重は、レリーフ状の形態から、次第に立体的アートにシフトし、据え付けであったり、取付け、また設置から転じ、展示スペースを含めアートとみなすインスタレーションへと変遷します。
斎藤義重の遺作となったものが、インスタレーション「時空」です。
そして、2001年6月13日、心不全によって横浜市内の病院で亡くなります。97歳の年齢でした。
様々なアートにトライし続けるものの、斎藤義重の根底にあったのは、いつも既存を破壊する熱いモーションでした。
斎藤義重のアートを、若い人たちが見て、おしゃれとか、インテリアとして素敵とか直感的感想はもつかもしれません。しかし、斎藤義重のアートに触れるには、彼の経歴にも触れ彼が既存を否定したアートを発信し続けたことも知る必要があるのではないでしょうか。まさに斎藤義重の手によって、アートは哲学的視点まで追い求められることになります。
哲学的に物事を考えていかないことには、斎藤義重のアートの深みまで入り込むことは不可能です。それを理解せずに、ただおしゃれだからと部屋のインテリアにすることに一体どれだけの意味があるのでしょうか。
無論、欲しいと思って購入する方々がいれば、それを拒む権利は、我々にはありませんが。
「ダダイスム」がなぜ、起きたのか、その背景には、第一次世界大戦があります。第一次世界大戦は、今までの戦争とは大きく違っていたのです。とにかく第一次世界大戦が大きな戦争であったこと、参加国が多かったこと、そして、第二次産業革命による機器の進化があります。銃火器、移動手段などが急激に進化し、戦争の質が変わってしまったことなどをあげることができます。
そして、世界中の人たちが戦争におびえていたのです。さらに、おびえるだけでなく、世界に嫌気がさしていました。
そのような状況を一刻も早く脱却したい、という思いの中ダダイスムが登場しました。斎藤義重の起かれた環境にも戦争が関わり、ダダイスムの世界に大きく感化されたと言っていいでしょう。
人間の理性とは、いい使い方がされれば、明るい未来をもたらしてくれることでしょう。しかし悪さをたくさんしてしまうのも人間の理性です。理性が存在しているから、人間たちは戦争を起こしてしまうのです。
であれば、もう考えることを停止してしまおう。それが、斎藤義重のアートの原点です。
斎藤義重のアートは、何がなんだかわからない……という意見も当然出てきてしまうでしょう。しかし、
そもそも斎藤義重の求めているアートがそのようなアートなので仕方がありません。
例えば、夏らしい絵を描くという場合、おおかた、入道雲と青空を合わせてみたり、木に止まっているセミを描こうというアイデアが思いつくことでしょう。しかし、その考えが、斎藤義重的アート的には間違いです。
夏イコール入道雲と結びつけている以上、そこに理性が存在してしまっているのですから。
ですから、斎藤義重のアートは、結果、めちゃくちゃなアートになってしまう可能性があります。しかし、めちゃくちゃなアートを作ろうという気持ちにも理性が生まれてしまいます。結果、作れたアートは、イコール何も考えずに作られたアートです。
何も考えないで作られたアートが価値をもつとは不思議です。しかし、人たちは、そのようなアートを斎藤義重の思想とともに身近に置くことで、社会的観念をいったん破壊することができ、もっと人間らしく生きることができる空間を作り、息づくことができるのではないでしょうか。
「トロウッド」は、
1938年頃、地となる白色の合板上に、「赤」・「青」・「黒」・「白」どれかに色付けされた楕円状、または帯状の板を重ねたレリーフ状のアートです。
また、「鬼」は、画面上部は白地に赤、そして、下部は赤に白、それぞれに抽象的な図形が示され、強烈なコントラスが印象に残るアートです。
「ペンチ」は、1966年~68年にかけて制作されたアートで、ラッカーで色付けした合板二枚を組み合わせて、ペンチを模倣し、ベースとなるパネルに取り付けた作品です
世界的に評価が高い斎藤義重のアートは、オークションでも高額で落札されています。
2021年1月に開催された「SBIアートオークション」において、彼氏の「作品」(ドリルされた合板、油彩)が、落札予想価格である300~500万を大幅に上回り、3,335万円で落札されました。
斎藤義重のアートを売却査定して欲しいと思っている方々もいらっしゃることでしょう。
斎藤義重の合板を用いた作品など、抽象表現を追求したアートは現在、人気が高い状態が続いています。彼の作品によっては百万を超える売却査定額になることもありますが、水彩作品などは数十万円程度で取引されています。
斎藤義重のアートは、ニーズが高いため、想像している以上の高い買取価格がつく可能性があります。
いかがでしょうか。今回は、斎藤義重のアートについて、また、売却査定情報について解説しました。
斎藤義重は、ダダイスムであったり、構成主義に影響を受けたアーティストです。
戦争のない平和な日本で斎藤義重のアートは無縁なものになってしまったのでしょうか。
いえ、そうではありません。人たちは心の中で満たされない不満、不安に満ち満ちて、解消する方法を見つけたいともがいているのです。
既存世界が破壊されること。そこから、新しい癒しの世界を覗き見ることができます。