2024.11.22
作家名
2024.11.22
中西夏之(なかにし・なつゆき、1935~2016)は、晩年まで精力的に新しいアートを誕生させ、日本だけでなく海外でも展覧会が開催されています。
平面アートと向き合うものの、平面アートという概念自体に根源的な思索を深め制作を続け、空間へとつながる緊張を表現してきました。
今回は、そんな中西夏之のアートについて深堀します。
目次
中西夏之は、1935年東京都に生まれ、東京藝術大学美術学部絵画科を卒業しています。
1959年には、砂を混ぜた塗料を使用した「韻」のアート制作をスタートし、1962年には、高松次郎、川仁宏らとともに「山手線事件」と称したハプニングを決行しています。
1963年の「第15回読売アンデパンダン展」において、キャンバスから出た紙紐に、洗濯バサミをたくさんつける「洗濯バサミは撹拌行動を主張する」を出品します。
洗濯バサミは撹拌行動を主張する。
それは、アートと鑑賞する人たちとの関係性を攪拌する主張でもあります。
また、赤瀬川原平、高松次郎と「ハイレッド・センター」を結成しパフォーマンスを行い、1965年あたりからは舞踏家の大野一雄、土方巽、瀧口修造、澁澤龍彦らとも交流を深め、暗黒舞踏の公演の舞台美術であったり舞台装置、オペラの舞台装置などに対して活動の幅を広げていくことになります。
1996年には、東京藝術大学美術学部絵画科の教授に就任します。
そして、1997年、東京都現代美術館において「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」が開催されました。
「ハイレッド・センター」は、「高松次郎」、「赤瀬川原平」、中西夏之によって1963年に結成された前衛芸術グループです。
衝撃的な真っ赤な「!」がシンボルマークとなっています。
ハイレッド・センターという名前は、メンバーの名前からとり「高」の「ハイ」、「赤」の「レッド」、「中」の「センター」を組合わせています。
1964年の東京オリンピックを前にして、警戒態勢がかなり高まる東京の路上において、秘密組織的なイメージを臭わせた行動を起こしたり、行き過ぎた公的機関の重要事業を偽装したり……と言った、都市の撹乱を狙ったもので、路上であったり、電車、ホテルなどごくごく日常的シーンで非日常的な過激なアクションを起こし、美術ジャーナリズムだけでなくメディアの注目を多く集めます。
ハイレッドセンターが結成する前年に行った「山手線事件」(1962年)では、中西夏之が、ガラクタをアクリル樹脂の中に放り込み固め、30㎝程度の長さのあるオブジェを持ち、品川から山手線に乗りこみ、オブジェを懐中電灯で照らし、その後、上野駅で降り、地面に置いたオブジェを舌で舐めるというパフォーマンスをしています。
変態?
危険人物?
異常者?
はたまた、アーティスト?
まさにそこに境界線は何もないような、見る人によっては即警察に通報してしまうようなパフォーマンスであるのかもしれません。
山手線事件の目的は、アートと、鑑賞する人たちとの関係性を攪拌することにあったと言います。
この出来事は、事件とも呼ばれることがあり、フェスティバルという言い方がされることもあります。しかし、アート的言い方をすれば、この出来事は、ハプニングです。
ハプニングとは、まさに、日常生活のシーンに非日常が介入する瞬間を言います。
アートは、日常生活に介入するものの、介入してしまえばすぐに日常化しなんでもないものになってしまうでしょう。そこで、ハプニングでは、一回性の瞬間が重要視されています。
アラン・カプロー(1927~2006)はハプニングの代表的アーティストということができます。
アラン・カプローは、見ている人たちを巻き込んで、氷のブロックを積み上げ、美術館ではない場所で巨大な氷のオブジェを作る行為を行っています。
それをアートと呼ぶのであれば、山手線事件はハプニングであり、まさに観客を巻き込み攪拌させるアートです。
ヨーゼフ・ボイス(1921~1986)は、アメリカのアートギャラリーにおいて、コヨーテと一週間過ごしたというパフォーマンスを行っています。
まさにそれがイベントであり、イベントは、日常行為また非日常を非日常なアートギャラリーなどで行う行為を言います。
であるとすれば、ハイレッドセンターが起こした行動は、やはりイベントではなくハプニングです。
「千円札裁判」では、赤瀬川が制作した千円札を模したアートが違法であるか否かが争われることになりますが、これ自体もハイレッド・センターのハプニングアートであり思惑通りの行動ともいうことができるのかもしれません。
駅のホームであったり、電車の中で突発的にされた「山手線事件」(1962)、帝国ホテルに招待客を呼び集めた「シェルタープラン」(1964)、また、路上を全身白衣姿で清掃し出した「首都圏清掃整理促進運動」(1964)……などなど、ハイレッド・センターの行動は、一貫して社会に属した直接行動です。ハイレッドセンターが現在も多くの人たちに語り継がれているのは、「共同性」を理由とすることができます。
絵画であったり、彫刻といった昔から存在しているアートの既成の枠組みに対して、1950年代ごろになって日本において新聞、木材など日常にあるモノを通して、日常とアートを近づけようとする行動の兆しがありました。ハイレッドセンターの場合さらにエネルギッシュに、アーティストが行動したという満足感だけでなく公共に意欲的に参加し、日常とアートの共同(日常とアートの攪拌)を仕掛けていきます。
アートとは、得てして個人活動として作られるものではなくて、集団であったり、日常との共同で生まれるものであるととらえたことに、ハイレッドセンターの活動の大きな意味があります。
中西夏之作の「山頂の石蹴り」のアートタイトルは、アートの内容自体を語っているということではなく、作成された場所と、画家の作品作りのイメージの方を示しています。
実際に描かれた場所は台地にある作業場なのですが、日常的領域からアートを遠ざけようする気持ちがあった中西夏之は、尖った高い山頂のごくごく狭い所を想定したと言います。
そしてこの連作は、ふたつの正三角形に支えられたハートの図形をベースとし、「兎」「魚」、「並ぶリンゴ」、「鏡」、「夕日の海」、「足跡」などと言った謎めくたくさんのモチーフと、かつ鮮やかな色彩、スピーディーに交錯する筆のタッチ、また、やわらかい状態の絵の具を扇形にのばすテクニック……などなど、様々な仕掛けが盛り込まれています。
さらに、中西夏之は図形の延長線上に「石蹴り遊び」をイメージしたということです。中西夏之のイメージでは蹴った石ころは谷間へは落下しないで、想像上の水平面を滑り、遠い山の向こうへ飛んでいってしまった……と言います。
「絵の姿形(すがた)」とは……?
絵の姿形とは、中西夏之自身が創り出した言葉です。
それは、キャンバスの上に描かれた個々の絵の様相だけではなく、絵という平面が世界の中で垂直に立つ姿を指しています。絵という平面が世界の中で垂直に立つために、平面の形が意味するものを問い、絵が発生する場所について考察するところからはじまっています。
「紫・むらさき XVII」では、画面全体を覆い尽くす網目模様の線を通し、見えてくる霞む黒点が奥行き感を醸しています。
また、キラキラとしたまぶしい光は、水面に反射した太陽光のようで自然の風景を感じさせます。
さらに、中央にある十字架を逆さまにしたような紫色は……?
タイトルの「17番」は、イタリアでは忌み数とされています。ローマ数字で表記されるXVIIは、並び方を変えればラテン語のVIXIとなり、「私は生きていた」という意味あいです。
ラビリンスに誘い込むようなアートは、意味を探るほどに答えが遠のいてしまうかのようです。
このアートによって、モダンであり和風、硬くて柔らかい……、未来的であって懐かしいと言ったアンビバレンツな不思議な体験をすることができます。
アートの前にいると眩しく感じ、光がこちらへやってくる気がします。中心性が強く、
束縛されてしまうかのような感じもあり、それでいて硬くもありません。ゆらゆらして不安定であり、弱々しくもあり、きわめて不思議な感覚です。
少なくとも鑑賞する人たちにとって、どうしてもそこに立ち止まり、アートをじっと見つめざるをえないような時間が生まれています。
そこに存在するのは「薄膜(うすまく)」という感覚です。
人と人が道で擦れ違うとき、ふたつの未来は衝突することなく擦れ違ってしまうだけかのように見えます。しかし、擦れ違ったこの瞬間、二人の間には、薄膜の垂直平面が生じているのです。それは、存在と時空が接触する繊細なごくごく瞬間だけ生まれる膜です。
例えば、椅子に座って、立ち上がれば椅子にはかすかな体温が残り、次の人が座るとかすかな体温を感じとることができます。
それは不在の接触であり、ないように見えて微妙な存在の痕跡を残しているのです。
四角いアートは常に表側だけが注目されることになりますが、同時にアートは、絵の裏側にも通じる道をもち、そして、見ている人たちにもアートの光は間違いなく届いています。
中西夏之のアートには、そのような壮大な宇宙的な感覚が存在しています。
現在、中西夏之のアートを所有していて売却査定して欲しいという方々もいらっしゃることでしょう。
中西夏之は、主として油彩で製作し、中西自身が手がけるオリジナルアートは大量に流通できないため、売却査定額が高くなる傾向があり、高価買取につながりやすいです。
また、特に浮遊する微粒子のような抽象画が人気で評価が高いです。
半世紀にわたり、アートとは何か……を問い続けたアーティスト中西夏之。その重厚な質感であったり、塗料を盛ったマチエール、そして、抽象的モチーフ……。内と外の関係を曖昧にし、どこかアンフォルメル的でもある。中西夏之は注目されているアーティストであり、今後も売却査定額の上昇も期待できます。
いかがでしょうか。今回は、中西夏之のアートについて、買取情報をお届けしまた。
中西夏之曰く、絵の四角い形についてプラトンの円筒という言葉で説明されています。
プラトンは、私達が見ている世界は洞窟の壁に映った幻影に過ぎない……ことを主張しています。
一方で中西夏之は、洞窟を単純化した円筒を縦に切り開いた平面が絵画だと主張し、アートの左右の辺は無限性をもつ巨大な円弧の一部だと想定しています。
中西夏之が使用している長い柄の筆も、無限遠から遠隔操作で絵を誕生させる意識のあらわれだと言います。
まさに、中西夏之のアートに存在しているのは、見ている側を攪拌し、延長し未来へつながるパワーです。
なかなか未来に対して期待感をもつことができない現代において、中西夏之のアートを飾る意味合いは大きいです。今後も、中西夏之のアートは、注目され、高い買い取り額を期待することができるでしょう。