2024.11.30
茶道具
2024.11.30
東京でも茶道具は高く買取されることがあります。主に、買取専門店が高く買取している茶道具は、名物と呼ばれているものです。
千利休のこよなく愛した「楽焼」も買取専門店では高額査定されています。
果たして楽焼とはどのような茶道具なのでしょうか。
今回は、楽焼にスポットを当てて解説します。
この記事では、
について知ることができます。
茶道具についてもっと深いった知識を持ちたい……という方々はぜひ一読ください。
目次
千利休が愛した茶道具には「楽焼(らくやき)」があります。初代長次郎(ちょうじろう)は、安土桃山時代を代表するような京都の陶工であり、楽焼の創始者です。長次郎は、茶の湯を大成させた千利休の意思に従い「赤茶碗」、「黒茶碗」と言った茶道具を考案します。
長次郎が作りだした独創性のある造形は、まさに千利休の侘の思想が色濃く反映され、禅であったり、老荘思想の流れを踏む、理念的な茶道具と言っていいでしょう。
千利休の追求した茶道具の理想とするものを、長次郎が「楽焼」という形で実現したのです。
また、楽焼は長次郎からはじまって、現在の十五代に至るまで一子相伝で継承されています。楽焼において、日本の陶芸分野においても他に類を寄せ付けないほどの独創的な世界観が構築されています。
実際には、千利休であったり、長次郎が生きていた時代に、楽焼という言葉は使用されていなかったようです。そのころは、ただいま誕生したばかりの名のない茶碗という意味あいで「今焼茶碗」と言う呼び方がされていました。
そもそも楽焼は、ろくろであったり、型を使って作るのではな、「手捏(づく)ね」と言った方法で、ひとつひとつを丁寧に、精魂こめ作っています。
決して簡単には作ることができるものではないゆえ、千利休をはじめとして、楽焼を茶道具として使用する人たちも、楽焼をとても丁寧に扱っていたのです。茶道具は丁寧に扱うことで、現在にまで残すことも可能。まさに、そのような茶道具には、骨董価値がつき、買取市場で高い買取額で取引されることになります。
高く買取される理由は、いくらお金を出してもその茶道具を欲しいと思っている需要があるからであり、さらに希少価値が、買取額を高めていきます。
ちなみに、長次郎が作り、千利休がいつもそばに置いていたとされている、表千家不審庵に伝わる黒樂茶碗「禿」(かぶろ)は、千利休の時代から現代に至るまで、所蔵者は全部判明していると言います。貴重な茶道具であり、同時にしっかり管理されていたのです。
長次郎の楽焼には、静寂の中に、世の中のすべての常識であったり、価値観を覆してしまうような「無」の状態にさせてしまう激しい流動性を見ることができます。長次郎は、まさに、アバンギャルドな茶道具を作る作家と言ってもいいでしょう。
様々な楽焼を鑑賞することができる展覧会が開催されているのですが、その展覧会のタイトルは、「茶碗の中の宇宙」です。まさに、あの時代、千利休も、茶道具ひとつに無限に広がる宇宙を見ていたのかもしれません。
その時代月へも決して簡単に行くことができない時代であり、宇宙の構造がどうなっているのか、それぞれの人たちが推測する以外方法がない時代だったのです。しかしそのような時代、そんなはるか遠くの宇宙をもっと身近に知る方法が存在していたのです。それが楽焼です。
三代目「道入」は、抽象模様を茶碗の正面に浮き出すなど工夫をして、楽焼にモダンな作りを積極的に取り入れてきました。それは、まだ千利休のことを知っている人たちが存命する時代にです。
その後に続いた歴代の面々も、決して長次郎の真似をすることもなく、その限られた時代の中で長次郎の存在を自身の心の中にしまい、咀嚼し、新しい創造を試みました。それでも長次郎の楽焼を大きく裏切ることもなく、創造性のある楽焼が次々と誕生しています。
はるか昔の時代、これほどまでに、モダンであり、アバンギャルドな茶道具が誕生していたのです。それはまさに驚くべき奇跡です。
五代、「宗入」は、今度は逆に、長次郎の次元に再び戻ろう……という流れをとります。
長次郎の独創性と繋がり、それでもしっかりと自身を表現する独自性が発揮されています。
また、樂家の一子相伝というものは、全部が世襲により継承されているかといえばそうではありません。時として、他家から養子を呼び親戚関係が結ばれたこともあります。
養子を取り込みながらも、親から子へと脈々と続いた家の作品がしっかり残っている例はそれ程多くある訳ではありません。 まさに、日本の伝統はそのような形で作られていくべき手本を見ているかのようです。
楽焼は、まさに千利休が愛し、千利休の茶道を的確に表現するために生まれた茶道具です。千利休が心に抱く、禅のスピリットを、具体的にしたものが、楽茶碗と言っていいでしょう。そして、楽焼が現代社会に至るまで残っているということは、現代にも、わびさびのスピリットが受けいれられているということです。
楽焼は、
などと言った特徴があります。それは、感情がそのまま表現されたようなフォルムです。
ある人から見れば、楽焼は不十分と思ってしまうかもしれません。しかし、千利休も足りないことを不十分と考えている訳ではありません。そこにこそ豊かなイメージを膨らますことで新しい世界が見えてきます。まさに、それが「不足の美」です。
千利休の指導で瓦職人が製作した「聚楽焼(じゅらくやき)」がそのはじまりとされています。そして、豊臣秀吉が建てた邸宅である聚楽第(じゅらくだい)を建設する時に掘られた土を使用して焼いた理由より「聚楽焼き茶碗」と呼ばれるようになります。その後は「楽焼」であったり、「楽茶碗」という呼び名で統一されることになります。
楽焼は、加茂川石や貴船石を使用した軟質の施釉陶器です。1200度もの高温で、上辺だけを一気に焼き上げ、中は半生にし熱伝導率を下げる工夫をしています。その方法によって、お茶が冷めないような茶碗にすることができます。楽焼には、お茶をいかに楽しむかを追求した工夫もそこにたくさん詰まっているのです。
東京で、茶道具が高く買取されるのは、高価な茶道具を求めている方々が多くいるからです。そのような方々は、茶道具を愛するとともに、千利休のスピリットである「わびさび」もしっかりとらえていることでしょう。
「侘び」とは茶道における、ひとつの美的価値観であり、清楚で質素な生活を主旨とし、質素でありながらも、その中に心の充足感と美的価値観を求める思想です。
一方で「寂び」は、経年変化により、次第に廃れてしまう一見物寂しい様子に、美的価値観が宿った様のことをいいます。色あせていくものからもにじみ出す美が存在しているのです。決して、わびさびとは、はかないものを愛するという日本人特有の美的価値観を形成しているのです。
「侘茶」という概念を生み出したのは「侘びの祖」である村田珠光です。村田珠光が残した心の文には、こう書かれています。
茶道具にとって大きな妨害となりうるものは、慢心と自身への執着である。巧者を妬んだり、初心者を見下すことはあってはならず、良いとされている茶道具を愛で、堪能し、高い品格を養った上で、全部を取っ払い「枯淡」の境地に至るときこそが面白い。
一方で千利休の考案した侘茶は、それ以上によりスピリットを重視しています。そこでは、主人と客がお互い尊敬しあって、おごる気持ちを持たず接する和敬静寂を軸とし、より本質を追い求めています。
千利休の考案する侘びの美は誰もが美しいと感じるかと言えば、そのようなものでもありません。
人々が侘びを美しいと感じるためには、視覚的に情報を捉えるだけではなく、侘しさの中に美を確認するための知識も必要であり、その空間を捉える想像力も必要です。茶道を愛するためには、文化的感性が宿っていることが大事です。そのような感覚は、自然に育つようなものでもないのです。
織田信長は、茶道に非常に興味をもち、千利休を師匠として採用してきました。織田信長は茶会を主催し、茶の湯の指南役となる千利休も、武士から一目置かれる存在となりました。
1582年、織田信長が明智光秀の謀反によって炎に散ったあとも、今度は豊臣秀吉が、千利休を茶坊主に取り立て、天皇に茶をたてる禁中献茶を取り仕切り、千利休の名は天下一の茶人として全国に知れ渡る事になります。
千利休の思想は、豪華で大胆なものを特に好んだと言われる信長であったり、秀吉が抱いたものとも違います。
東京でも、茶道具である「楽焼」を高額買取しています。
千家十職(せんけじっしょく)とは、三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)で使用する茶道具を制作する人たちのことを言います。
千家十職のひとつであり、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂吉左衞門(らくきちざえもん)の茶道具も現在、東京で高い価格で買取されています。
樂吉左衞門の茶道具などの骨董品は日々価格も変動してしまうため、鑑定のノウハウと同時に大事になるものが市場の現在の買取相場です。
買取専門店であれば、いつも最新の売却相場の情報を把握しているため、高額買取のタイミングを逃がしません。
いかがでしょうか。今回は、東京でも買取価値の高い楽焼について解説しました。
楽焼に触れることは、まさに、千利休のわびさびのスピリットを知るいい機会です。
新しい流行に流されてばかりいると時として、こんな日本の古い文化に触れたいと思うようなこともあるのかもしれません。
現在、東京でも、茶道具に対しても高い需要があります。お持ちの楽焼も、買取専門店で高く査定してもらえるかもしれません。
せかせかした世の中で、ふっと一息つける場所、それが茶道具の世界なのかもしれません。