2024.11.22
作家名
2024.11.22
伊藤清永は、昭和から平成にかけて日本の洋画家として様々な賞を受賞しています。
温かみのある暖色で、女性美を追求した作品が多いのが特徴です。
70年近く絵を描いてきた伊藤清永は、おおらかに自由に色を重ねながら温かみのある裸婦像を多く描いています。豊麗優美な裸婦像は、高い評価を得ています。
洋画家としての伊藤清永の魅力を紹介しながら、買取が可能かどうかを紹介していきますので、参考にしてください。
目次
1911年明治44年に生まれた伊藤清永は、昭和から平成にかけて70年に及び、日本で洋画を描き続けた人物です。
1928年に油絵の岡田三郎助に師事し、その後長年にわたって日展などで多くの賞を受賞し続けました。
1962年、51歳の時にパリおよびオランダへ渡欧して制作をしていますが、その後は再び帰国しています。この時の渡欧の時期より、画風が変化したとも言われています。それ以降、より色使いが豊かになり、女性の肌を柔らかな描線で描く裸婦像が増え、華やかな薔薇の油絵などが高評価を得ています。
1976年に日本芸術院賞恩賜賞受賞者を受賞し、1996年には文化勲章受章者を受賞するなど、長く実績を積んでいった人物です。
特に、伊藤清永は、日本の洋画家の中で、裸婦像の名手として知られていて、東京美術学校油絵科を卒業後、70年近く女性美の追求をしてきたと言えます。
実家は、禅寺でしたが、画家の道へと進み、14歳で油絵を始めた経歴があります。中学時代の恩師に洋画家として有名な岡田三郎助を紹介してもらい17歳の時に師事。
その後、二度の応召を経験し、復員した後、生家の寺で住職代理をした経験もあります。しかし、その後、制作を一からやり直し、裸婦の制作に取り組み始めたと言います。その後、そうした裸婦像で、日展に多く入賞しています。
伊藤清永の描く洋画の魅力は、裸婦像にしろ、その他の薔薇などの絵にしろ、温かみのある暖色使いにあります。
多くの色腺を重ねて描き出される温かみのある独自の画風が魅力となっています。特に伊藤清永の描く裸婦像は、その温かみのため、豊麗優美な魅力があると言えるでしょう。
艶やかな肌色から「発光する裸婦」とまで称されていて人気です。ダイナミックでおおらかで、自由に多くの色を重ねることで、女性の肌の美しさを描いているのが大きな魅力です。身体の立体的な美しい曲線が見事に描かれていると言えます。
そして、これらの画風を作り上げる伊藤清永の描き方はとても独特ですので、そのことも知っておくといいでしょう。
彼は細い筆を無造作に、抽象画でも描くように描いていきます。色鮮やかな線を何度も重ねて描きます。そして、それがいつの間にか、裸婦の肌色となって、「発光する裸婦」の肌を作り上げます。
伊藤清永は、輪郭を描いて、そこに色を塗っていくという一般的な描き方ではなく、細い筆で無造作に描いていった結果が、いつのまにか裸婦の形を作っているというような技法を持っています。
そのため、出来上がった女性の身体のラインは自由な雰囲気があり、生きているような生命感にあふれたものに感じられるのが大きな魅力です。
また、伊藤清永は、裸婦像だけでなく、花瓶の花、特に薔薇をたくさん描いていますが、そちらも印象的です。印象派作家ルノアールを思わせるような、光り輝くような画風で、薔薇の香りが感じられる作品が多くあります。
そして、晩年の2001年、軽井沢のアトリエなどで描いた「ばら」が最後の作品となっています。
花瓶の薔薇を描いた多くの作品では、赤、黄、オレンジなどの暖色の静止画の薔薇に、光や風の動きが感じられるような自然の動きがある作品がたくさんあります。油絵らしくカラフルに描かれているのですが、赤、黄、オレンジなどの暖色により艶やかで生命力を感じるような印象があります。
薔薇の花弁1枚1枚に光や風の動きを感じられるような描き方が特徴と言えるでしょう。まさに「咲き誇っている薔薇」が多く描かれていて、見る人の心を豊かにしてくれる魅力があります。
本当の花を飾っているような香り立つ明るい華やかさをまとっているのが魅力です。
1911年兵庫県生まれ、禅寺に生まれ育つ
1928年本郷研究所にて岡田三郎助に師事
1931年槐樹杜展で「祐天寺風景」が入選
1933年第14回帝展に「朝の路次」を出品し初入選
1934年第15回帝展に「秋光」を出品
1935年東京美術学校油絵科卒業
1936年文展に「磯人」を出品し特選受賞
1947年第3回日展で「I夫人像」が特選受賞
1948年第4回日展で「室内」が特選受賞
1953年伊藤絵画研究所を創建する
1956年日展審査員に就任
1957年愛知学院大学教授に就任
1962年51歳の時にフランスのパリおよびオランダへ渡欧
1976年第8回改組日展に「曙光」を出品し内閣総理大臣賞受賞
1977年「曙光」で日本芸術院恩賜賞受賞、日展理事となる
1984年「釈尊伝四部作」大壁画を制作
1991年文化功労者に顕彰され、日展顧問となる
1996年文化勲章受章
2001年軽井沢で逝去(享年90歳)
「裸婦」シリーズや「薔薇」のシリーズは多くあって、伊藤清永らしい有名な作品です。どちらも温かみのある暖色の色合いが感じられる作品が多く、特に薔薇シリーズはカラフルな色合いが迫ってくるような画風が人気です。
・「椅子に臥る裸婦|1951年」
油彩作品で、初期の頃の作品のため、温かみのある色合いではなく落ち着いた色合いとなっています。室内で椅子に臥る裸婦が妖艶に描かれています。日本人の肌の質や色を美しく表現した作品となっています。
・「曙光|1976年」
油絵作品で日展内閣総理大臣賞、77年日本芸術院恩賜賞を受賞した代表作と言え、日本で高い評価の作品となっています。鏡の前に立つ前かがみの豊満な裸婦像が艶やかで、まさに「発光する裸婦」といった魅力がある作品です。
また、「曙光」の作品は文化庁が買い上げて、日本芸術院に所蔵してあります。
・「釈尊伝四部作|1984年」
着手から7年、73歳で完成した作品です。釈尊の生涯を縦3.8m、横2.7mの縦長の画面に、「降誕」「降魔成道」「初転法輪」「涅槃」をそれぞれ描いていった四部作の大作です。禅寺に生まれ僧侶の家に生まれた伊藤清永が、画家としての使命感を感じながら、晩年に約7年をかけて制作したものです。母校愛知学院大学百周年記念事業で、講堂の壁画に釈尊の生涯の場面を描いています。
73歳で精魂傾けて作った大作「釈尊伝四部作」完成後も制作欲は旺盛で、個展を開催したり、展示会に出品。1990年代、伊藤清永は80歳代になり視力を弱めてしまいますが、さらに色を自由に操り色彩豊かな裸婦像作品を最後まで描き続けます。亡くなる歳である90歳の時にも「鏡に立つ」などの裸婦像を描くなど、最後まで多くの人を魅了した作品を多数残しています。
兵庫県出身のために、兵庫県に豊岡市立美術館があり、そこに「伊藤清永記念館(兵庫県豊岡市出石町内町)」が建てられています。250点ほどの作品を一度にたくさん見ることができておすすめです。
2階展示室では伊藤清永の代表作の「裸婦」の大作がいくつも見られて圧巻です。
正面には25歳の頃に制作した「磯人」の大作が展示され、「I夫人像」「太鼓櫓」「秋光」「母の肖像」「朝のノートルダム」「妍和」「マジョリカ壺のばら」「浴后」など多くの作品が常設展示されています。
また、「薔薇」の作品が「なかた美術館(広島県)」にコレクションされています。
1971年の「寛裕」の作品が「兵庫県公館(兵庫県)」に所蔵されていますので、見てみるといいでしょう。1970年代の作品は、円熟期とも言われている頃の作品です。椅子にゆったりと座って寛ぐ裸婦像を描いていますが、色彩がとても豊かで温かみがあるのが特徴です。暖色を操る女性美の洋画家といった伊藤清永のイメージにふさわしい作品としておすすめです。
伊藤清永の作品は日本で多くの賞を受賞していて有名です。
伊藤清永の作品を売却が可能かどうか、買取査定がどうなのかですが、油絵では、晩年の温かみのある色合いの作風が高く評価され、高価な買取査定がつく傾向です。
特に「裸婦」のシリーズや「薔薇」「バラ」シリーズなどは、代表的な作品として売却時に高額の買取査定となります。数十万円~100万円以上の買取も可能です。
また、「薔薇」「バラ」の絵などは、花の広がりがある構図の方が華やかなため、売却時に高値査定が多くなります。
また、それ以前の油絵に関しては、あまり高額とまではならないことが多い傾向と言えます。
パステルやデッサンに関しては、一般的に油絵よりも買取査定額が下がる傾向です。版画もありますが、需要が少なくなります。
伊藤清永の洋画家としての魅力について詳しく紹介しました。裸婦像を長年にわたって描いてきた伊藤清永です。
禅寺に生まれた彼ですが、油絵の画家を目指し、裸婦像を描いたのが特徴です。線を何度もおおらかに重ねながら描いていく手法により、温かみのある画風が特徴的と言えるでしょう。薔薇も多く描き、暖色を多く使って美しく生命力豊かに描いた画家です。
多くの賞に輝き、日本での高い評価もあって人気の画家です。90年にわたる作家活動で、晩年に文化勲章も受賞しており、十分に名の知れた人物です。
特に、裸婦像と薔薇の作品に定評があり、多くのファンがいます。暖色で温かい気持ちにさせてくれる作品が多くあるため、売却にもおすすめです。
今、高額で買取査定してもらえる所を探すのも良いですし、もっと高く売れる状況を待って売却をすることも可能です。
ぜひ、紹介した伊藤清永の魅力をよく知った上で、買取査定と売却について検討されることをおすすめします。