2024.11.22
作家名
2024.11.22
白髪一雄は日本の抽象画家であり、戦後日本の前衛芸術を牽引した美術家集団「具体美術協会」の中心メンバーとして知られています。「フットペインティング」と呼ばれるこれまでにないユニークな制作方法で描かれる白髪一雄の作品は、海外からも高い評価を受けています。
この記事では白髪一雄の経歴、その性格、代表作品、作品の特徴、作品の所蔵されている場所、買取、売却、査定について記述していきます。
目次
白髪一雄は1924年(大正13年)、兵庫県尼崎市西本町に生まれました。呉服店を営む父親は趣味で絵を描いていたこともあり、その影響で白髪一雄も幼い頃から絵を描くようになりました。
兵庫県立尼崎中学校(現・兵庫県立尼崎高等学校)では絵画部に所属し、この頃から画家を目指すようになります。1942年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、日本画を専攻しました。その後、教育機関である美術研究所で学びを深めました。
1952年には画家の金山明、村上三郎、田中敦子らとともに「0会」を結成し、同年結成された現代美術懇談会に参加しました。お互いの作品を持ち寄って批評し合うのが主な活動で、2年後には大阪そごうのショーウィンドウで0展を開催しました。
また同年には吉原治良、須田匡太、山崎貴雄、中村誠、植木茂、田中健三らが結成した「現代美術座談会」にも参加しました。
油絵に転向したばかりの白髪は、風景画や人物画を描いていましたが、やがて既存の絵画の枠を超えて独自の創作をしたいと考えるようになりました。
そして1954年、天井から吊るされたロープにつかまり、床に広げたキャンバスに足で絵を描く「フットペインティング」と呼ばれる手法を編み出しました。
同年、白髪は足で描いた処女作『作品Ⅱ』を0回転に出品し注目を集めました。足を絵筆として使う前例のない絵画手法は、身体の動き(パフォーマンス)と絵画を連動させた画期的な制作方法でした。
1955年には、0会の仲間とともに「具体美術協会」に入会しました。具体美術協会は、抽象画家で実業家の吉原治良を中心に、阪神地区在住の若手芸術家によって1954年に結成された前衛芸術家集団です。具体美術協会の中心メンバーとして活躍した白髪は、パフォーマンスアートの先駆者です。この頃から水滸伝に登場する英雄たちの異名を冠した力強い作品群を生み出しました。
1971年には、密教への関心が高まり、比叡山延暦寺に出家。後に天台宗の僧侶となります。 翌年には吉原治良の死去により具体美術協会は解散、そしてこの頃から白髪一雄の作品には密教的な精神性が濃厚に表れ始めます。制作スタイルも素足で描くものからスキージーと呼ばれる長いヘラを使って描くものへと変化しました。
1974年、35日間の仏教修行「淀加行」を終えた後、スキージーで円相を描き多くの作品を制作しましたが、円相の繰り返しで行き詰まりを感じてしまい、再びフットペイントに戻ります。
その後、1987年に兵庫県文化賞、1999年に地域文化功労者文部大臣賞を受賞し、2002年には大阪府芸術賞を受賞します。
そして2008年に敗血症のため尼崎市にて83歳で死去します。
白髪一雄の作品の最大の特徴は、作品を描く際に用いる「独特の手法」にあります。
1951 年、白髪はアメリカの抽象表現主義またはアクション ペインティングの第一人者であるジャクソン ポロックの作品に出会います。床にキャンバスを置いたジャクソン・ポロックにインスピレーションを受け、白髪は独自の制作方法を開発します。それは天井から吊るされたロープにつかまり、床に広げたキャンバスに足で絵を描く「フットペインティング」と呼ばれる手法です。
白髪は、フランスの美術評論家ミシェル・タピエに認められ、従来の表現形式を否定し、暴力的な表現行為に生命のダイナミズムを託す芸術運動「アンフォルメル」に参加しました。 そのため、1962年以来、彼はヨーロッパ中で作品を発表してきました。
白髪は、足絵を始めた当初は荒々しく力強い作品を多く残しましたが、1870年代以降、その作品には密教の濃厚な精神性が現れ始めます。スキージーの仕事から足絵の制作に戻り、清々しさと精神性の高さを感じさせる作品を制作し始めました。
フットペインティングという革新的な手法で描かれる白髪一雄の作品は、生命の輝きを感じさせる圧倒的な力を持つと言われています。また、絵の具の粘性や流動性をリアルに感じることができる油絵独特の魅力があり、国内のみならず海外でも高い評価を得ています。
スターバックスの創業者であり、世界的な大企業に成長させた実業家、ハワード・シュルツはアートコレクターとしても広く知られています。ハワード・シュルツ氏は2018年にスターバックスを退職しましたが、彼の執務室にはかつて白髪一雄の「ルージュ」が飾られていました。
白髪一雄は1969年(昭和44年)に『タヂカラマン(O)』を制作。 縦114cm×横88cmの作品で、力強いタッチで描かれた鮮やかな赤と黒が印象的な作品。
1989年に兵庫県加西市が130万円で購入しましたが、2017年に加西市から尼崎市に委託されました。白髪の「タヂカラ男」は加西市デジタルミュージアムでも見ることができます。
白髪一雄の「作品B」は、赤と黒を基調とした縦122cm×横96cmのダイナミックな作品です。1993年(平成5年)、大阪府枚方市の京阪電気鉄道枚方市駅地区の高架化を記念して建設会社から寄贈され、同駅構内に展示された。しかし、2015年(平成27年)10月10日の深夜に盗難に遭い、世間を驚かせました。
2017年に犯行を指示した自称古物商の男と、盗品と知りながら購入した会社役員の2人が逮捕されました。「作品B」は当時、5000万の価値があると言われていました。
白髪一雄記念室は、白髪一雄の出身地である尼崎市に2013年に開設されました。この記念室は、白髪一雄の業績を讃え、その絵画作品を広く紹介することを目的として、尼崎市の文化発信の中核施設である尼崎市総合文化センター内に設置されました。
尼崎市が所蔵する白髪一雄の作品約120点(絵画、版画等)のほか、白髪一雄の死後、遺族等から寄贈・寄託された多くの作品・資料(絵画、スケッチブック、書籍、写真等)合計約4,000点のアイテムを収蔵しています。
年に2回展示替えを行う白髪一雄記念室では、アクションペインティングだけでなく、初期の風景画や初期の油彩画も鑑賞できます。 白髪一雄の絵画をさまざまな角度から知ることができます。
近年、白髪一雄の作品は多くのオークションにて高値で取引されています。 特に高値を記録した3作品を紹介しましょう。
2018年6月にパリで開催されたサザビーズ・アート・コンテンポラリー・イブニング・セールでは、1959年に制作された白髪一雄の「高雄」(縦182センチ、横273センチ)が約11億3000万円という高額で落札され注目を集めました。
白髪一雄の「赤い乱気流」(縦183センチ×横229センチ)は1969年に制作され、翌年の大阪万博に出品され話題となりました。2014年にパリで開催されたサザビーズオークションでは5億4590万円で落札されています。
『知烈星活船場』は白髪一雄の『水滸伝シリーズ』の一つで、1961年(昭和36年)に制作されました。赤と青の絵の具を使ってダイナミックに描かれたこの作品は、2013年にパリで開催されたクリスティーズのオークションにて2億1,650万円で落札されました。
2000年代に入り、海外の美術館や美術市場で具体美術協会の評価が高まり、それに伴い白髪一雄の作品の価格も高騰しました。
白髪の油絵は抽象的な作品が多く、価格は数百万円から1,000万円を超えます。出品されている作品は10点以下のものが多いですが、サイズが大きくなるほど査定額が高くなる傾向があります。
また白髪は版画も制作しており、その多くはシルクスクリーン作品です。ここでの購入価格は数万円程度が一般的です。サインや付属品の有無、保存状態も価格決定に影響する重要なポイントとなります。
2021年(令和3年)に放送された、テレビ番組「なんでも鑑定団」に白髪一雄の作品が登場しました。この回は、息子の誕生記念に義父の勧めで購入した作品の鑑定を夫が依頼するという内容で、この作品は購入後も義父の家に残されていたそうです。その作品を鑑定士である山村宏一氏が鑑定したところ、なんと8,000万円という高額で鑑定され、依頼主をはじめ、会場は驚きに包まれたというエピソードがあります。
今回は日本の抽象画家であり、戦後日本の前衛芸術を牽引した美術家集団「具体美術協会」の中心メンバーとして知られている白髪一雄をご紹介しました。彼の作品の最大の特徴である「フットペインティング」は、これまでにないユニークな制作方法で描かれた作品として、国内外問わず高い評価を受けています。数百万円から1,000万円を超える値がつくことが多く、これまでも、これからも注目され続けると予想されます。白髪一雄の作品の売却・買取・査定をお考えの方はぜひ当社をご検討ください。