2024.11.22
作家名
2024.11.22
斎藤義重(さいとう よししげ)は、青森県弘前市出身の日本の現代美術家です。
絵画や彫刻などの多数の優れた作品を残していますが、戦後日本の現代美術において「もの派」の作家に多大な影響を与えたことが高く評価されています。
国内でも海外でも高い評価を得ており、斎藤義重の作品は今も高値で査定・買取されています。
斎藤義重の作品の大きな特徴といえば、通常の油絵などの絵画の制作手法を採っていない作品が多いことです。
ドリルや合板などを使い、平面と立体を融合させた彼のオリジナル作品が多く残されています。
自由な発想による創作を行い、レリーフやトロウッドと呼ばれる作品を見ると、斎藤義重らしさを感じることができ、味わい深い作風であることがわかります。
斎藤義重の作品は、すでに何度もメディアで取り上げられており、多くの人が目にしています。
画家本人はすでに亡くなっていることから、これから新しい作品が生まれることはありませんが、これからも注目され続けるアーティストの一人として知られています。
斎藤義重の作品を探し求めている方はいつもいらっしゃいます。
世間で話題になることも多く、その際には、彼の作品も同じように高価買取になっています。
美術品としての価値ももちろん申し分ありません。
安定した多数の売買実績がありますので、長期所有する価値のある美術品です。
日本を代表する現代美術家、斎藤義重は、国内外を含めて世界中に多くのファンがいることでもよく知られています。
初めて査定を依頼すると、その人気の高さや評価額の高さなどに驚かれることでしょう。
本記事では、斎藤義重の経歴や作品の特徴を中心に紹介しています。
さらに、斎藤義重の作品の査定・買取価格の目安や作品の価値についても分かる範囲で解説しています。
すでに斎藤義重に興味のある方はもちろん、これから斎藤義重の作品をたくさん集めたい、と考えている方にとっても有益な情報を提供していきます。
目次
斎藤義重は、青森県弘前市出身の現代美術家です。
1904年に生まれ、2001年にかけて活躍していた画家です。
斎藤義重は、「さいとう よししげ」や「さいとう ぎじゅう」と読まれることもあります。
陸軍軍人であった父の異動に伴い、栃木から東京へと移り住んだことがあり、本籍は東京都になっています。本人は、7人兄弟の次男でした。
子供時代の斎藤義重は、父の書斎でヨーロッパの絵画や建築に慣れ親しみ、アメリカ映画を好んで見るような少年であった、というエピソードが残されています。
1920年に開催された「ロシア未来派」による展覧会を見て、その絵画制作手法などに衝撃を受け、創作活動にも影響しましたが、前衛芸術運動の活発化や哲学思想の融合などの時期にあったため、当時は絵画よりも文学活動を重視していました。
そして、1930年代は造形活動を重視するようになりましたが、戦時中ということもあって、一時的に働いたりしながら、静かに作品の活動を続けました。居候や結婚、離婚なども経験しています。
1939年には、美術文化協会が結成され一時的に参加した後、1953年には協会から退き、その後どの団体にも属することはありませんでした。
1958年には、東京画廊とタッグを組み、海外へ作品を出展するようになり、同時に作品が売れるようになりました。
1960年には、ベネツィア・ピエンナーレ、翌年にはサンパウロ・ピエンナーレに出展し国際絵画賞を受賞しました。
この頃からドリルを使った平面作品を手掛けるようになり、作風に変化が見られます。
1963年〜晩年までは、横浜にアトリエのある住まいに転居し、1964年に多摩美術大学の教授に就任しました。
美大の教授に就任したことがきっかけで、後の「もの派」として名を馳せる若手芸術家を数多く輩出することになりました。
「もの派」を語るうえで、斎藤義重は影響を与えた人物として必ず登場しています。
幼少期は、陸軍軍人であった父親の赴任に伴って、栃木や東京などにも移り住みました。
1917年に日本中学校に入学しました。
幼い頃から父親の書斎に入って、ヨーロッパの建築や絵画、彫刻が写った絵葉書などを見て芸術や美術に興味を示していました。
すでに中学時代には、セザンヌやゴッホの作品などを参考にしながら、油彩の風景画や人物画を描いていたそうです。
1920年、在学中であった斎藤義重は、ダヴィド・ブルリュークをはじめとする「ロシア未来派」が主催する展覧会を見て、その作風に大きな衝撃を受けました。
「ロシア未来派」といえば、1910年代に隆盛したアヴァンギャルド芸術の潮流のことです。
ブルリュークといえば「ロシア未来派の父」とも呼ばれるほどの人物で、当時の日本に亡命していました。
その際、日本に持ち込まれた様々な新傾向の数百点の作品をまとめて展示する機会を作り、日本の前衛芸術の発展にも寄与することとなりました。
それまで絵画とは見たものをそのまま描くものだと思っていた斎藤義重は、ロシア未来派の「絵画のイリュージョンの否定」は衝撃でもあり、その後の彼の作品制作手法に多大な影響を与えました。
20代頃からの斎藤義重は文学にも傾倒し、絵画からは少し遠ざかっていました。
しかし、ヨーロッパの前衛芸術を専門に取り扱う雑誌などを見て、ロシア構成主義やダダイスムの作品に影響され、再び美術の世界に戻ることになりました。
1935年頃、古賀春江や東郷青児らが主催する「アヴァンギャルド洋画研究所」に在籍したこともあります。そこでは、構成主義やダダイスムからの強い刺激を受けることとなりました。
1939年になると、第1回九室会展に出品したり、美術文化協会に参加したりしていました。ところが、1953年に美術文化協会を退会した後、以降はどの団体にも所属していません。
戦時中は、軍用石鹸工場で働いていたために運良く徴兵を免れていました。
しかし、空襲によって多くの彼の作品、小説の草稿、直筆のノートなどが全て焼失しています。
戦後、斎藤義重は、千葉県浦安市で療養生活を送っていました。
しかし、病気が回復した後、東京画廊と組み、1958年頃から海外へ作品を出展するようになり、同時に作品が売れるようになりました。
1960年代は、国際的な美術展に数多くの作品を出品することになりました。
例えば、1960年にはベネツィア・ピエンナーレ、1961年にはサンパウロ・ピエンナーレに出展し国際絵画賞を受賞し、高い評価を得ました。
この頃からドリルを使った平面作品を手掛けるようになり、作風に変化が見られます。
斎藤義重は、海外での評価も非常に高いことで有名です。
サンパウロ・ピエンナーレに出展した頃も、国外の作家が奪い合うようにして斎藤の作品を買い取っていました。
斎藤義重は、横浜に転居した後、1964には多摩美術大学の教授に就任しました。
この大学教授就任がきっかけとなって、後に「もの派」の中でも中心人物となる関根伸夫や菅木志雄といった芸術家を多数輩出することとなりました。
ところが、1973年、大学紛争が起こった頃に斎藤は理事会と対立して大学を去りました。
そして、1982年、今度は自身の教育理念を実現させるべく東京芸術専門学校(TSA:Tokyo School of Art)を開校し、自身も講師として着任しました。(校長にも就任しましたが、残念ながら2000年に閉校しました)
そして、斎藤義重は、2001年93歳でその生涯を閉じました。
斎藤義重が中学生時代に見て衝撃を受けた「ロシア未来派」の絵は「見たものをそのまま描く」という当時当たり前だった発想を根底から覆すものでした。
その影響によって、彼は平面と立体を融合させたような作品を多く手掛けることになりました。
斎藤義重が自ら手掛けた作品の中では、特にレリーフが有名です。
例えば、楕円や板状の合板を組み合わせた「トロウッド」などがよい例です。
この作品は「トロ」=まぐろが「ウッド」=木板の上に並べられているように見えることから斎藤義重自身が命名しました。
また、重ねた合板にドリルを使って線を描く作品なども多く制作していました。
まるで制御の効かないようなパワーあふれるドリルさばきと、制御していないようできっちりと制御している人間の腕の細かい振動が、何とも表現できない不思議な動線を描き出しています。
斎藤義重は、実は美術学校にも行っていないのに、芸術の道へ進んでいます。
そのため、自らを「芸術家」だと思う意識が薄かったようです。
しかし、逆に自由奔放な発想力が可能となり、他の芸術家の技法を真似ることなく、固定観念に囚われないような幅広い創作活動に注力することができました。
晩年の斎藤義重は、平面と立体の垣根を越えた三次元的表現に注目し挑戦し続けました。
そして、インスタレーション「複合式」を発表するなど、創作意欲は死ぬまで途切れることはなかったようです。
「トロウッド」「鬼」「ペンチ」「反対称」などが斎藤義重を代表する作品です。
斎藤義重の買取価格情報の一部が公開されていましたので参考情報として紹介します。
2021年:作品|3,335万円
2021年に開催されたアートオークションにおいて出品された「作品」(ドリルされた合板、油彩)が、落札予想価格300~500万を大きく上回り、当時の最高額3,335万円で落札されたことがあります。
しかも落札予想上限の6.67倍でした。
ボーパンD 限定50部 版画 スクラッチサイン 140,000円
ボーパンM 版画 52,000円
ボーパンL 限定50 部 版画 84,000円
作品 シルクスクリーン 5,000円
斎藤義重の場合は、ドリルや合板などを使って制作された作品に高い人気がありますが、通常の絵画制作とは縁遠い表現様式となっていることが大きな特徴です。
このような作品は、斎藤義重らしさがよくわかる作品となっており、国内だけではなく、国外の美術品収集家や彼の作品を愛する人に高い人気があります。
作品によっては100万円を超える評価がつくことがあります。
また、水彩作品であっても、数十万円単位で評価できるものが多くなっています。
斎藤義重の作品は、優れた美術品としても世界中で高い評価を受けています。
また、知名度も抜群です。
彼の手掛ける新しい作品が出てこないことを考えると、これからもますます高い価値が付けられるでしょう。
ここまでで斎藤義重の経歴や作品の特徴について詳しくご紹介いたしました。
ここからはすでに何点か斎藤義重の作品を所有している方や、これから所有する予定の方に向けて、高値査定や売却のポイントについて解説していきます。
美術品等の査定買取において、作品や作家の知名度は、査定買取にもプラスに影響します。
また、発売直後の作品は、メディアで取り上げられる機会も増えます。
多くの方に認知され、注目度も高まるからです。
一時的に査定額がアップし、高額買い取りのチャンスにもなっています。
斎藤義重といえば、世界中から高い評価を集めるアーティストです。
過去に手掛けた作品を所有しているなら、保管状態がよく、発売直後の状態を保持している場合、期待以上の高い査定結果が出ます。
人気芸能人や海外セレブがアーティストの作品やグッズを愛用していると、SNSなどを通じて「突然人気が出る」ことがあります。
もちろん、過去にトレンドとなった作品も買い取り対象です。
発売から長期間が経過していても、再度注目され、高額査定になることもあるからです。
斎藤義重ほどの著名なアーティストなら、査定で値段が下がることはありません。
作品の売却を検討する際には、各方面での情報をチェックしてください。
こまめにメディアやニュースなどを取得し、しっかり分析すれば、売却の時期もわかるようになるでしょう。
斎藤義重の作品は、超有名なアートオークションでもすでに高額落札実績があります。
また、希少価値の高い作品も多く、確実に高価買取されています。
作品のサイズや作品の内容によっても買取金額が異なるため、斎藤義重作品の売却をご検討の際にはぜひ弊社にもお声掛けください。
本記事では、斎藤義重の経歴や作品の特徴、その作品の査定価格の目安と売却時の注意点について詳しくご紹介してきました。
「斎藤義重」は、物故作家ですが、アカデミックな現代美術家として知られており、今でも海外で高い人気があります。
これから斎藤義重の良質の作品を集めようと考えている方も、別のアーティストの作品が欲しくなって手放そうと考えている方も、斎藤義重の作品を査定・売却したい方は、ぜひ弊社にお問合せください。