2023.11.27

田崎広助(たさき ひろすけ)とは、どんなアーティスト?略歴や作風、作品の特徴や現在の買取価格について解説

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「田崎広助」は、福岡県八女郡(現在の八女市)出身の洋画家です。1898年(明治31年)に生まれ、1984年(昭和59年)に86歳で逝去しました。富士山や浅間山、桜島など山の風景を描いた画家として知られています。ここでは明治から大正、昭和を生きた画家、田崎広助について解説していきます。

略歴

幼少期

 田崎広助は、福岡県八女郡(現在の八女市)で生まれ育ちました。八女市は、現在も豊かな自然に恵まれた場所であり、幼少期の田崎広助はそこで投網をうって魚と触れ合ったり、心の赴くままに絵を描いたり、のびのびと幼少期を過ごしました。中学校時代には片道8キロもの距離を裸足で通学していたというエピソードもあるそうです。大自然の中で身体も心も鍛えられ、幼いころから山や海に囲まれて育ったことが、田崎広助のその後の画家人生に多大な影響を与えているということは、想像に難くありません。

高校卒業後~大学卒業後

 子供のころから絵を描いていた田崎広助は、高校卒業後、東京美術学校への進学を希望していました。しかし、父親や家族の期待に応える形で、教師としての資格を取るため、不本意ながら福岡県師範学校(現在の福岡教育大学)に進学します。大学卒業後は、小学校で美術教師として教鞭を取る傍ら、同郷の画家、坂本繁二郎や青木繁が活躍している姿に触発され、自身も画家としての道を模索し始めます。 

大学卒業後~フランス留学時代

 画家としての道を模索し始めた田崎広助は、1920年(大正9年)に上京し、安井曾太郎に師事します。しかしその3年後の1923年に関東大震災で被災し、京都へ移住します。そこで後の妻となる女性と巡り合いました。2人は共に京都市の尋常小学校で教師として勤務していた同僚で、結婚を機に田崎広助は教師を辞め、画業に専念し始めました。そして結婚から2年後、日本における美術家団体のひとつで、1914年に結成された「二科会」が毎年秋に開催している美術展「二科展」の第13回(1926年)で初入選を果たします。その後、1932年(昭和7年)にヨーロッパへ渡り、約2年間フランスのパリで留学生活を送りました。そこでの留学中、1933年にサロン・ドートンヌ賞を受賞します。サロン・ドートンヌは1903年に創設された毎年秋にパリで開かれる、伝統ある作品展です。この展覧会に2作品を出品し、2作品とも入選しました。当時無名だった日本人画家、田崎広助がフランスの作品展で入選したことはフランスの新聞でも大きく報道されたと言います。

帰国後~晩年

 帰国後、田崎広助は日本を代表する絵画団体のひとつである「一水会」の創立に参加します。一水会は、西洋絵画の伝統である写実主義を守り、技術を重んじ、訓練によって、芸術の高みを目指すことを尊重している団体です。

パリ留学中、田崎広助は、西洋の文化の中で、西洋と日本や東洋の違いを追及しながら、美術を学びました。しかし、帰国後は、西洋画の技法と伝統をベースに日本や東洋的な美しさ、伝統、自然を見つめ直し始めます。そしてその頃「松」を題材とした作品を多く描いています。田崎広助自身が、松には東洋の心を秘めた、独自の深い味と美しさ、日本的な高雅な品位とたたずまいがあると語っていたそうです。その代表作が「松と朝顔」という作品です。

その後、特に田崎広助がその生涯にわたって魅了されたのが富士山や阿蘇山、桜島など日本の山々です。戦後は美術展を主催したり、美術展の審査員や評議員、理事を務めるなどしています。また文化勲章をはじめとする数々の賞も受賞し、美術界での功績を広く認められた芸術家であると言えるでしょう。

名前の由来

田崎広助という名前は雅号(画家や芸術家などが本名以外につける名前)で、本名は田﨑廣次といいます。この雅号は、母親の旧姓に由来しており、その姓が「助広」であったことから、その2文字をひっくり返して「広助」としました。また、田崎広助は中学時代にすでに「田崎草雲」という雅号を名乗っていたという話もあります。しかし、幕末から明治の初め、すでに田崎草雲という別の画家が存在していたためか、その雅号は長くは使わなかったようです。

受賞歴

 1926年 第13回二科展入選

 1933年 サロン・ドートンヌ賞受賞(フランス)

 1961年 「初夏の阿蘇山」「朝やけの大山」が日本芸術院賞受賞

     -日本芸術院賞とは、日本芸術院がその会員以外に授与する賞で、この賞を受賞することは卓越した芸術作品であることや、芸術の進歩に貢献したことが認められたと言えます。

 1968年 勲三等瑞宝章受章 

     -瑞宝章は現在存在している日本の勲章22種の中のひとつで勲一等から八等まで制定されており、「国家又は公共に対し積年の功労ある者」に授与されると定められています。

 1973年 ブラジル政府によりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール賞受章

     -この章の受章の背景には、田崎広助が東郷青児らとともに、第1回日伯現代美術展(伯はブラジルのこと)の開催にあたり、ブラジルとの美術交流や友好親善に尽力したことが挙げられます。なお、この章は最高名誉章、文化章です

 1975年 文化勲章受章

     -文化勲章は日本の勲章のひとつで、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を上げた人に授与される、階級のない単一級の勲章です。存命者は文化功労者として顕彰されます。

国内の所蔵美術館

 田崎広助の作品は国内の美術館でも実際に鑑賞することができます。特に出身地である福岡県の福岡市美術館には、30以上の作品がコレクションされています。

 福岡市美術館

   「森の道(夏小路)」(1926年)

   「巴里風景」(1933年)

   「早春の武蔵野」(1952年) 

   「晩秋の九重山」(1958年)

   「由布岳」(1960年)

   「妙高山の晩秋」(1963年)

   「朝やけの大山」(1966年)

   「桜島」(1968年)

   「快晴の阿蘇高原」(1973年) など

 愛知県美術館

   「松と朝顔」(1939年)

   「阿蘇」(1940年)

 東京都現代美術館

   「阿蘇」(1963年) 

   「桜島」(1972年)

 

 東京国立近代美術館

   「外輪山の阿蘇」(1950年)

田崎広助の美術館

 田崎広助が1984年にこの世を去ったあと、1986年に軽井沢に「田崎美術館」が、2017年には故郷である八女市に「田崎廣助美術館」が開館しました。

 田崎美術館(長野県軽井沢)1986年開館

 田崎広助は軽井沢を第二の故郷として愛し、戦後は軽井沢にもアトリエを構え、浅間山や八ヶ岳など、山岳画を中心に多くの作品を制作しました。そんな田崎広助の作品を永久保存し、展示したいという田崎広助本人の遺志に沿う形で田崎美術館は作られました。田崎広助の作品を展示し、画人文化交友の資料を常設するとともに、公募展や講演会、研究会なども開催し、社交の場としても活用されています。

 また、田崎美術館の建物は雲を連想させるような積乱形の屋根に、幾何学的な壁面で構成された斬新な設計で、軽井沢の自然とも調和するようにデザインされています。1986年(昭和61年)には日本建築学会賞を受賞しており、この建物自体も鑑賞するのに興味深い建築物ではないでしょうか。なおこの田崎美術館では田崎広助の作品鑑定も行っています。

 八女市田崎廣助美術館(福岡県八女市)2007年開館

 八女市出身の田崎広助の功績を称えると同時に、近代絵画の系譜をひく優れた作品や資料を収集、保存、展示し、調査研究を目的として、開館されました。

作風

 

 田崎広助は山を描いた作品で特に知られていますが、山と自身が同じ目線で対峙するように描かれているのが特徴的です。また、油絵の技法のひとつである遠近法を用いず、日本画の技法として特色のある、平面で描いている点や、輪郭線をはっきりと描いている点も特徴的です。西洋画を追及する一方で、日本的な美を追い求めていた田崎広助ならではの作風かもしれません。

作品の取引価格

オークション

 田崎広助の作品は、オークションでは十万円台~数十万円ほどで取り引きされています。バブル期はより高値で取り引きされていたようですが、現在はその時期よりは価格が落ち着いているようです。

画廊・ギャラリー

 現在、画廊やギャラリーで取り扱われている作品の参考価格を紹介します。

 

 「箱根の朱富士」(油彩)1,300,000円

朱色に染まる富士山と周囲の山々の緑、空や水面の青とのコントラストが印象的な作品です。

 「櫻島の朝やけ」(油彩)1,260,000円

夕焼けほど真っ赤ではない淡い赤色に染まった桜島が描かれています。空の水色と黄色が目を引く作品です。

 「朱富士(1)」(油彩)約730,000円

田崎広助が好んで描き、多くの作品が残されている朱色の富士山です。富士山や他の山々、雲の輪郭がはっきりと描かれています。サイズは0号(14センチ×18センチ)と小さめの作品です。

   

 「櫻島」(リトグラフ)約140,000円

リトグラフ作品は油彩作品に比べると、値段が下がります。この作品は町の様子と桜島が融合した作品です。全体に淡い青や緑の印象の中、堂々と描かれた桜島が勇壮な印象を与える作品です。

売却・査定

 田崎広助は、山を描いた作品以外にも、風景画や静物画も多く残しています。しかし、山岳画家と呼ばれるだけあって、やはり山を描いた作品が人気です。特に人気があるのは田崎広助の代名詞とも言える「朱富士(あかふじ)」です。阿蘇山や浅間山、桜島など数々の山を描いていますが、最も高く評価されるのは富士山を描いた作品のようです。

 また、田崎広助は、同じタイトルで、複数の作品を残しています。同じテーマであっても、色や構図、大きさなどが異なるため、買い手の好みに合う作品を探すのも楽しいかもしれません。作品の価格は、図柄や作品の大きさによって変わりますが、若いときの作品よりも、独自の作風を築き上げた晩年の作品の方が、高値で取り引きされる傾向にあるようです。

 田崎広助の作品は、前出の「田崎美術館」で鑑定も行われており、その鑑定保証書がついたものも流通しています。作品の相場はおおむね、数十万円~で、100万円を超えるものは多くないようです。しかし、査定価格や売却価格はその作品の保存状態、サイズ、油彩か版画かなど、多くの要素に左右されるため、売却や購入を検討している場合は、いくつかの専門業者を回った方がいいでしょう。



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