2023.11.26

菅木志雄の人柄、作品、買取について

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菅木志雄(すが きしお)は1944年2月19日岩手県盛岡市産まれ、静岡県伊東市在住の現代美術家で、妻は作家の富岡多恵子です。

菅は1960年代後半から1970年代にかけて台頭した現代美術の大きな動向である「もの派」の中心メンバーとして知られています。 もの派のアーティストは、石、鉄板、ガラス、電球、綿、スポンジ、紙、木、鉄線、針金、ロープ、革、油、水など、さまざまな要素を「もの」そのものとして扱います。そして、スペース、相互依存に焦点を当てました。また、菅は自然物質と工業物質の出会いを探求することで、作品の中でそれらを一時的な心の休息状態に置きました。

この記事では菅木志雄の経歴、その性格、代表作品、作品の特徴、作品の所蔵されている場所、買取、売却、査定について記述していきます。

プロフィール

菅木志雄は1944年、岩手県生まれ。 李禹煥(リ・ウファン)、関根伸夫と並び「もの派」を代表するアーティストです。 木、石、金属などの自然素材や人工素材を加工することなく空間に配置し、そこに生まれる景色を「状況(風景)」と呼んで作品を制作しています。 1974 年以来、彼は「アクティベーション(活性化)」と呼ぶ活動を展開しています。これには、既存のインスタレーションを新しいものに置き換えて空間を活性化することが含まれます。菅はこれまで数多くの個展やグループ展に参加する中、2012年にロサンゼルスのブラム&ポーで開催された展覧会「Requiem for the Sun: The Art of Mono-ha」への参加をきっかけに、米国で再評価されるようになりました。

さらに同年の後半、ニューヨーク近代美術館で開催された「東京 1955-1970: 新しい前衛」に参加し、2016年にはイタリア・ミラノのピレリ・ハンガルビコッカにて大規模な個展「Situations」を開催しました。 日本では2008年、栃木県那須塩原市に菅木志雄倉庫美術館が開館し、菅木の作品が常設展示されています。 2016年には毎日芸術賞を受賞しました。

経歴

1964年から1968年まで東京の多摩美術大学で絵画を学び、多摩美術館在学中には、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、西田幾多郎、ナーガールジュナ、ヴァスバンドゥなどの作品を読み解きました。

また、この時期に大学で教鞭を執っていた二人の作家が菅に大きな影響を与えたと言われています。その一人である斉藤義重は、菅と他の学生たちに、西洋を中心としたモダニズム(近代主義)と芸術理論に対して脱構築的なアプローチを取るよう勧めました。また、菅に影響を与えたもう一人の教師は、芸術家の高松次郎です。高松はだまし絵のような絵画や彫刻で当時の東京アートシーンの中核を担っており、菅の初期の作品には高松のアプローチが反映されています。

 1968年にはツバキモダンギャラリー(東京)にて初個展を開催しました。菅は視覚操作による絵画や立体作品の制作と並行して、さまざまな素材を用いた創作活動を開始しました。一例として、おがくず、綿、灰、プラスチック粉末、および土の層が透明なアクリルの箱の中に置かれている「積層空間」(1968 年) が挙げられます。

1968 年後半までには、物質、儚さ、宇宙の探求は、より広範な運動として認識されるようになりました。 たとえば李禹煥(リ・ウファン)はこの時期、石や鉄板を並べた初めての作品を発表しました。 また、神戸・須磨離宮公園で開催された初の野外彫刻展に関根伸夫が出品し、『Phase-Earth』という作品を発表しています。

そして1973年までに、菅木志雄、李禹煥(リ・ウファン)、関根伸夫、小清水進、吉田勝郎、榎倉康二らが「もの派」として知られるようになりました。

菅は、物事や状況の現実の相互依存性に着目する行為を「消極的」と呼び、自らの考えを「無」という言葉で表現しています。存在の「状況」と「活性化」を探求する過程で、もの派のアプローチを象徴するインスタレーションを数多く制作し始めました。

管の思考論

インド哲学との出会い 人・物・状況すべての否定

管は、美術書に加えて哲学書も総合的に勉強することで、最終的にはインド哲学に惹かれるようになりました。勤勉な菅は、ある日ナーガルジュナの空論を知りました。 当時、これを読んだ際、菅は大きな衝撃を受けたと言います。例えば、すべてが否定される状況があれば、それはナーガルジュナの中道論では、「もの」を作るということは、すべての「もの」とそこに見えるものを否定することを意味します。

そこで単純な疑問が浮かび上がります。”全てを否定した先に何が残るのか?” 全てを否定してしまうと芸術は無になってしまいます。 そこにあった学びは消え去り、何も残りません。では、そこに何があるのでしょうか? これらは頭の中で考えるのではなく、まずその人がそこにいることで「もの」があり、さまざまな「状況」が空間を埋め尽くしているという事実に正直にならなければなりません。

ナーガルジュナの場合は否定論理であり、ここにはすべてが否定される「もの」が存在します。このような矛盾した理論から、菅はとても現実的な啓示を受けたといいます。 全てを持ちながら全てを否定する。 そのとき、菅は”ゼロからしか生まれないのではないか”と考えたといいます。

菅の考えるアートメディア

アートはメディアを通じて何かをしますが、菅はメディアと対話する方法はさまざまであると考えます。メディアを上手に利用する人、メディアに負ける人、メディアというものをあまり理解していない人、見る人、実存的に受け取る人。アーティストはそれらに自由に触れることができますが、少なくとも「見える」ものはある意味「何もない」のと同じだといいます。何もないからこそ、そこに「もの」があり、そのとき初めて、自分の持つ「もの」、つまり「ものの認識」について考えるようになるのだといいます。「もの」があれば、そこには空間的なものがあり、「もの」は比喩としての広がり、狭さ、広さといった要素もあると菅は考えます。

哲学なくして芸術はあり得ない

菅は展覧会の度に文章を書いていました。ある日、外国人に翻訳してもらった際、カタログに載せたら、これは芸術論ではなく哲学だと言われたのだそう。菅には心当たりがありましたが、菅は哲学のない芸術は不可能であると信じており、その時々に深く考えることが大事な要素だといいます。

1960年代の終わりごろから「芸術の解体」を目的とした動きが活発となったことで、芸術を考える際、「個人の解体」「思想の解体」が頻発したことで、芸術ができない人、創作できる人、様々な状況を把握できる人が出てきました。菅はよく作品の作り方について聞かれた際、”説明ができない”と言います。その理由として、メディアが存在し、それを何かやれば芸術が生まれるという考えを持っている人たちに対して菅は「『もの』なんてない、何もない。でも、何かはある」と伝えたいのだといいます。

すべての「もの」をフラットに見ることで、「もの」の存在が浮き彫りになる

菅の過去の作品や現在の作品を見るとわかることがあります。それは菅が作品と向き合う際、まずは素材にこだわらず、イメージを持たず「もの」をまっすぐに見ていることです。菅自身、活動を始めた初期には、自分の考え方に合わせて「もの」を捉えようとしていましたが、その後、石ひとつ、枝ひとつ。 そのスペースこそが必要なものだと考えるようになります。その理由として、空間が一つあると、そこには様々な「モノ」が存在していて、 大抵の場合、「物」はそこら中に散らばっているのです。製作者は散らばった「もの」をどうやって作品にするかという課題を常に抱えているといいます。

必ずしも一致するものがあるわけではないが、そこには違和感を感じる「もの」がたくさんあるのだと言い、その際には文句を言うのではなく、なぜ場違いに感じられるのかを考えなければいけないと菅はいいます。さらに画材として身近なものもあるが、それがなぜ使われるのかをよく考えなければならないとも言います。すべての「もの」をフラットに見ることで、今まで場違いと感じていた部分がそうではなかったり、ここにものがあることで少し違和感を覚えたりと、そういったことに気づくことができるのだといいます。

菅はそれぞれの「もの」の固定的な意味を排除することで、別の方法で意味を付加し、自分なりにアレンジしていくことが ひとつの「もの」のあり方であると語り、空間が大きくなればなるほど「もの」の存在は変容し、その存在だけを際立たせる方向に持っていくことが可能だといいます。

展示会

1968年に東京のツバキモダンギャラリーで初個展を開催して以来、国内では岩手県立美術館、横浜美術館、千葉市美術館、広島市美術館などで個展を多数開催しました。

その他、第8回パリ・ビエンナーレ(1973年)、ポンピドゥーセンターでの「ジャポン・デ・アヴァンギャルド1910-1970」展(1986年)、横浜美術館、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館にて開催。

管の作品は、「戦後日本前衛芸術」(1994年)、国立国際美術館「もの派再考」(2005年)などの画期的な展覧会でも発表されています。

2008年には、栃木県の老舗旅館・板室温泉大黒屋の敷地内に、菅木志雄の作品を常設展示するスペース「菅木志雄倉庫美術館」がオープンしました。

2012年2月、アメリカ・ロサンゼルスのブラム&ポー・ギャラリーで開催された「Requiem for the Sun: The Art of Mono-ha」展で管の作品が紹介されました。これは、もの派を考察する米国初の展覧会です。2012年11月、同じBlum & Poe Galleryにて米国初の個展を開催。同年、ニューヨーク近代美術館で開催された「東京1955-1970」展にも管の作品が出品されました。

彼の主な作品

情勢の法則(1971年)

山口県宇部市常盤公園の池に、長さ20メートルのガラスの上に平らな石10個を乗せて浮かべた作品。

Isometric Body (1973年)

壁に立てかけられた2本の枝が、床に置かれた石に4点で結ばれたロープを支えているインスタレーション作品。

Multitemporal (1975)

複数のコンクリート柱の上に透明なプラスチックシートを敷き、それぞれの柱に石を置いた作品。

まとめ

今回は静岡県伊東市在住の現代美術家である菅木志雄(すが きしお)についてご紹介しました。菅は1960年代後半から1970年代にかけて台頭した現代美術の大きな動向である「もの派」の中心メンバーであることに加えて、国内外で多数の個展を開催していることからマニアも多く、菅の作品は高値がつくと予想されます。菅木志雄の買取・査定・売却は当社にお任せください。



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