2024.11.30
作家名
2024.11.30
田名網 敬一(たなあみ けいいち)は、日本のアーティストであり、グラフィックデザイナー、また、イラストレーター、映像作家です。
1936年7月21日に誕生して、現在は87歳という年齢です。
田名網敬一は、1960年代からグラフィックデザイナーとして活躍し、アートからファッションジャンルまで幅広い分野のコラボレーションを手掛けてきました。
海外からの注目度も高く、戦後日本アートで欠かすことができない存在です。
今回は、そんな田名網敬一について深堀をします。
目次
田名網敬一は、1936年7月21日、東京の服地問屋に誕生します。
子どものころに、田名網敬一は戦争体験をしています。
1958年には「花嫁と狼」(ポスター)で日宣美特選受賞。翌年に銀座で個展開催します。
1960年、武蔵野美術大学造形学部デザイン科を卒業し、博報堂に入社します。1962年には、博報堂を退社し、1975年、グラフィックデザイナーとして、プレイボーイ」誌(日本版)に関わります。
1991年には、京都造形芸術大学教授に就任しています。
田名網敬一は、子どものころに第二次世界大戦の影響を大きく受け、アート作品も、空襲に見舞われる東京の映像が主要なモチーフとなっています。戦争とともに、田名網敬一は新潟県の六日町に疎開し、戦争が終焉すると東京に戻ってきます。
彼は、紙芝居の「黄金バット」であったり、山川惣治の「少年王者」と出会い、アート意欲をわかせることになります。その後、田名網敬一は、怪獣ものからはじまり、マリリンモンローの「ナイアガラ」まで様々なジャンルの映画に没頭します。
彼は、学生のころに既に「花嫁と狼」(ポスター作品)で日宣美特選を受賞し、雑誌「マドモアゼル」のアートディレクションなどの仕事の依頼を受けています。
田名網敬一のアートは、カラフルで明るいイメージもありますが、一方では、ただ明るいだけのアートではなく、彼の子どものころの暗い戦争体験も反映しています。
脳裏に貼りつき決して消えることのない記憶であるため、創造すれば必ず創造する力と一緒に引きずり出してしまうことに。
また、田名網敬一のアートを見ていて感じるのは、とても80歳と思うことができないほどエネルギッシュであることです。
まさに、年齢にそぐわない若々しさで、アートは誕生し続けています。
ピカソの「母子像」を模写して誕生した新作「ピカソシリーズ」は、既に400点以上に及んでいます。
田名網敬一のアートは、ただ明るいというのではなく、根底に戦争体験から身体にこびりついた死生観が反映しています。
コロナ禍の中、現代社会も戦争のあったころと共通している死生観があると言ってもいいのかもしれません。しかし、コロナ禍でなかったとしても、人間は1日1日年をとり、確実に死と向き合っているため、死に対して無関心でいることはできないはずなのです。しかし、それを一生懸命忘れようとしているのも人間の本能であるのかもしれません。
田名網敬一は子どものころ体験した戦争体験によって、より死生観を強く心に秘めていました。あまりにも戦争の記憶が強く、コロナ禍の死の恐怖であり、年齢による死の恐怖みたいなものは薄れていると感じたことがあると語っています。
戦争体験は、アートにも反映し、彼の人生から切り離すことができるものではありません。それほど、戦争とはむごい体験であり、死の連続性と対峙する出来事だったのです。
そして、人を死に対して敏感にさせてしまう出来事だったのです。
しかし、田名網敬一のアートは、戦争体験がそのまま表に出てしまっているグロテスクなイメージの暗いアートではありません。
戦争体験を打ち消すかのような、極彩色で構成され、まるで私達
をユートピアへと導いてくれるかのようです。
それは、田名網敬一が普段深く戦争体験を考えている訳でもないし、戦争について描こうという気持ちももっていないためです。
しかし、田名網敬一がいったんアートを描けば、決して切り離すことができない戦争体験がどうしてもアートの本質に反映してしまうのです。
ユートピアとは何か。ユートピアとは、死と無関係の場所にあるものと言いたいところですが、実はそうではありません。
人間たちには死があり、苦悩があるからこそ、そのようなものが存在しない場所を求めてしまう……。それがユートピアです。
ユートピアも、人間の死の局面とつながっている場所なのです。
ユートピアを追い求める。まさにそれが、田名網敬一のアート活動と言っていいでしょう。
また、ユートピアという言い方が妥当でないのなら、人間が死ぬ寸前にみる光景と言っていいかもしれません。
人間は、死ぬまで死の恐怖におびえて過ごしているのです。しかし、いったん死のギリギリ状態まで近づけば、死によって解放されるという気持ちになることができます。
まさに、田名網敬一のアートは、人間の生から解放された瞬間の絵図なのかもしれません。
そこには、人間が今まで体験したすべての色が登場します。そのひとつひとつが経験であるかのように。
天使も悪魔も手をつなぎあいどんちゃんさわぎ。おどろおどろしい化け物もファンタジーの登場人物かのようです。
田名網敬一はこうも語っています。子どものころに戦争体験をしてしまったから、もう普通の子どもではいることができなくなってしまった……。と。
田名網敬一のアートに共通していうことができるのは、様々な自己の記憶と関わっているのではないかということです。
田名網敬一本人に聞けば、様々な自己記憶に依存していることは事実としても、実際に記憶をさかのぼれば、中学校や高校生の時の記憶はほとんど消えてなくなってしまっていることに気づいたそうです。
何もなく真っ白な状態。それは、彼にとって戦争体験があまりにも強烈な体験であったからであり、どんな子どもだったのかと聞かれても、その質問には答えることができなかったといいます。
また、田名網敬一のアートには、目がモチーフとして頻繁に登場します。
田名網敬一は、アートを創造するということは、見ることからスタートするものであり、目は意識し、たいていは目から最初に描くと言います。
世の中には、できれば見たくないものも一杯あります。しかし、いちいち見ることをやめてしまえば、それだけで自己の存在意義は消えてなくなってしまうのではないか……。
人間は、見るために生きているともいうことができるかもしれません。戦争が起これば、戦争を凝視し、記憶に残すことによって自己はつながれていくのです。
このように田名網敬一は、アートに様々な目が登場するため、目のストックは一杯用意してあるということです。
そして、最近になって彼のアートに対しての取り組み方が変わり、最初に人物を描き、あとからマッチしている目を落としこむ手法をとっているということです。
つまり、それは顔のコラージュであり、田名網敬一が求めているのは、アートを決定づけるような力強い目であり、アートが活性化する目です。
最終的に目を配置して、強烈なインパクトを醸し出すことができればアートは完成、まだだと思えばいろいろな他の目を配置して、完成を待ちます。
そのとき、田名網敬一は、アートを創造する本人ではなく、出来合いのジグソーパズルで遊んでいるような客観者でいるのかもしれません。
果たして田名網敬一の魅力はどこに存在しているのでしょうか。
それは、単に平面アートに過ぎないのに、いつか今にも動きそうな動的なものに変化していくことです。
彼は、「動」ということにもすごく意識をしています。それは、幼少期に通っていた映画館で上映されていたアニメーション作品に影響を受けています。
ウォルト・ディズニーのミッキーマウスであったり、ベティ・ブープ、ポパイなどと言ったキャラクターを輩出したフライシャー兄弟……。
本人曰く、
絵が動くということに対し異常な関心をもちました。
だから今でも、絵を描く時には、動画のある瞬間が停止したら……ということを推理して描く作業をしています。絶えず動いている絵をストップさせ、その絵が次はどう動くかを想像できる絵を描きたいと思っていた。
そのことが見ている人たちに伝わればとても面白いと思う。
田名網敬一はいつもそんなことを思いながらアートを創造しているのです。
現在、田名網敬一のアートを所有していて、売却査定して欲しいと思っている方々もいらっしゃることでしょう。
田名網敬一の創作活動は絵画であったり映像、版画、アニメーション、また実験映画であったり立体作品など……、現在でもまだ成長し続け、世界中のアーティストであったりミュージシャン、ファッションデザイナーなどの面々から尊敬を得、コラボレーションも様々手掛けてきました。
ベトナム戦争や、日米安全保障条約改定、中華人民共和国文化大革命、またオイルショック……などなどの激動の時代を反映し躍進、カウンター・カルチャーを牽引し、同世代だけでなく様々な世代から絶大な人気を誇っています。
コロナ禍の不安を抱えたいまはまさに、田名網敬一に対しての高いニーズがあり、高い売却査定額がつく期待値があります。
いかがでしょうか。今回は、田名網敬一のアートについて、また買取情報をお届けしました。
人間は、やはり死と無関係でいることができない存在です。しかし、人たちはそれでも日常生活でひたすら死を隠して生きようとしているのではないでしょうか。
そんな生活をしている方々に、田名網敬一のアートが斬新に飛び込んでくることでしょう。
彼のアートは、単に色彩が豊かで明るいというのではなく、本来存在している人間性に気づかせてくれるアートです。
田名網敬一のアートは、現在とても注目されているため、まさにいまが売却査定してもらうためのいいタイミングです。