2024.05.23
作家名
2024.05.23
目次
アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)、本名アンドリュー・ウォーホル(Andrew Warhola)は1928年8月6日にアメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ市東部にあるオークランドでスロバキアからの移民の両親の元に産まれた。アンドリューの父アンドレイ・ウォーホル(Andrej Warhola)は建築業、アンドリューの母ジュリア・ウォーホル(Julia Warhola)はが裁縫業で働いていた。ウォーホル一家はピッツバーグ市東部にある小数民族集落で多くのスロバキアの文化と伝統を残した生活をしていた。そして、アンドリューの両親は敬虔なビザンティン=カトリック教徒であり、定期的にミサに参加していた。
アンドリューは8歳の時に舞踏病を患った。これは珍しい病気で、時には命に関わる神経系の病気であった。そしてアンドリューは数ヶ月間寝たきりになった。熟練のアーティストであったジュリアは、その期間にアンドリューに絵を教えた。これはアンドリューが初めて受けた絵のレッスンであった。絵を描くことはすぐに子供の頃のアンドリューの趣味になった。また、アンドリューは映画の熱心なファンであった。そこで、ジュリアは9歳のアンドリューにカメラを買い与えた。そして、アンドリューは絵と同様に写真にも熱中した。アンドリューは撮影用の暗い部屋を地下室に作って、そこで写真撮影にも没頭した。
アンドリューはHolmes Elementary Schoolに通いながらピッツバーグのthe Carnegie Institute (現the Carnegie Museum of Art)の無料の芸術クラスに通っていた。
1942年、アンドリューが14歳の時にアンドレイはが黄痘によってこの世を去った。アンドリューは父の葬式に出席できず、そのことにひどく気を取り乱して、通夜の間はベッドの下に隠れていた。アンドレイはアンドリューの芸術の才能に気づいていたので、自らの貯蓄は将来のアンドリューの芸術の専門教育に当てることに決めていた。
父が死んだ年にアンドリューはSchenley High Schoolに入学し、1945年にそこを卒業して、卒業と同じ年に絵画のデザインを学ぶためにGarnegie Institute for Technology (現Garnegie Mellon University)に入学した。そして、1949年にアンドリューはファインアート(純粋芸術とも呼ばれる。平たく言うと、”美しいこと以外に特に役に立たない芸術”である。)の学士号を取得して大学を卒業して、ニューヨークシティで商業芸術家(商業芸術とは、創造的なサービスの芸術であり、商業目的で創作された芸術、主として広告を意味する。)として働き始めた。そのタイミングで自らのラストネームの一番後ろについている”a”を落としてAndy Warholになった。
1949年9月にアンディはGlamour magazineで仕事を得る。そこでアンディはその奇抜で独特なスタイル、独自に編み出した滲んでぼやけた線を使う技法やゴムのスタンプを使う技法などを駆使したスタイルによって様々な賞を受賞した。
1950年代後半、アンディは絵画にさらに集中し始める。そして1961年に”ポップアート”、大量生産された商業的製品に焦点を当てた絵画、という新しい芸術の概念を発表する。
1962年、今となってはアンディ・ウォーホルを象徴する作品になっている”キャンベルのスープ缶(Campbell’s Soup Cans)”を発表する。この小さなキャンバスに日用消耗品が描かれた絵画は大きな衝撃を芸術の世界に与え、これによりアンディの作品とポップアートが初めて全米で脚光を浴びた。そして、イギリス人芸術家のリチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)はポップアートを”大衆的で、一時的で、使い捨てで、低予算で、大量生産されて、若くて、機知に富んで、魅惑的で、人を惹きつけるためだけにある、華やかな、ビッグビジネス”と評した。それに対しアンディは次のように返した。”貴方が一度ポップを感じたとしても、貴方がそれと同じものを見れることは二度とないだろう。そして、貴方が一度ポップのことを考えたなら、貴方がそのときと同じアメリカを見れることは二度とないだろう。”
1964年、アンディは自分の美術スタジオを開いた。そのスタジオは銀色に塗られた大きな倉庫で、”The Factory”という名前で知られた。そこはすぐにニューヨークシティで最も権威ある文化的ホットスポットの1つになり、その街で最上級に裕福な社交会の名士らや著名人らが交流する豪華な社交場になった。その中には音楽家のルー・リード(Lou Reed)もいて、彼はThe Factoryで出会った男装や女装をする活動家らに、ルーのヒットソングである”Walk on the Wild Side”の中で敬意を表した。
その曲中にはThe Factoryの常連だった者達が描写されている詩があり、その中ではホリー・ウッドラーン(Holly Woodlawn)、キャンディ・ダーリング(Candy Darling)、”リトルジョー(Little Joe)”こと”ジョー・ダレッサンドロ(Joe Dallesandro)”,”シュガー・プラム・フェアリー(Sugar Plum Fairy)”こと”ジョー・キャンベル(Joe Campbell)”、ジャッキー・カーティス(Jackie Curtis)が登場する。アンディはルーの友達であり、ルーが所属するロックバンドのthe Velvet Undergroundの運営にも関わっていた。この頃、アンディはニューヨークシティのStudio 54やMax’s Kansas Cityのような悪名高いナイトクラブにまで自らの名声が定着することを明らかに楽しんでいた。
1967年、アンディは自身初となる書籍、”Andy Warhol’s Index”を出版した。
1968年、この頃にはアンディのキャリアの繁栄はほとんど止まっていた。同年6月3日、アンディは作家でラディカル・フェミニストのヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃された。その銃撃によって、アンディは深刻な怪我を負った。ヴァレリーはアンディの映画の1つに出演したことがあり、報道によるとアンディがヴァレリーが書いた脚本を作中で使用することを拒絶したことでヴァレリーが逆上して件の銃撃に至ったらしい。その事件の後、ヴァレリーは逮捕されて、後に有罪を認めた。アンディは数週間ニューヨークの病院で怪我の治療のために入院し、そこでいくつかの手術を経た。それでも怪我は完治せず、アンディは余生を医療用コルセットを着用しながら生きなければならなかった。
1970年代になっても、アンディは新しいメディアの形の探究を続けた。同年代、アンディは”The Philosophy of Andy Warhol”と”Exposures”という書籍を出版した。
アンディはこれまで様々な分野での制作活動を行ってきた。そして1980年代にはついにテレビの世界に進出して、MTVにて”Andy Warhol’s TV”と”Andy Warhol’s Fifteen Minutes”という二つの番組を主催した。しかし、この頃のアンディは慢性的な胆嚢の問題を抱えていて、1987年2月20日にNew York Hospitalに入院し、そこで彼の胆嚢は無事に摘出された。それにより彼は回復に向かっていると思われていたが、手術の数日後に合併症を患っていることが発覚して、その結果突然の心停止により、1987年2月2日にアンディは58歳でこの世を去った。たくさんの人がニューヨークにあるSt. Patrick’s Cathedralで開かれたアンディの追悼式に参列した。
1961年11月から1962年3月または4月にかけて制作された。32枚のキャンバスから構成されている。各キャンバスには当時、Campbell Soup Companyが販売していた32種類のスープ缶が描かれていて、どれも互いに異なる絵画である。
1964年に制作された絵画であり、,マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)を赤、オレンジ、青、セージブルー、ターコイズと様々な色で描いたパターンがある。中でもセージブルーのマリリンは1億9500万ドルと、20世紀の作品としては史上最高額で落札された。
1973年に制作された毛沢東の肖像画。
1964年に制作された、市販のブリロのパッケージ模倣品。
1963年に制作された。8人のエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)が描かれている。2008年に1億ドルで売却された。
とある絵画・美術品の買取専門店のサイトでは66品中最も買取価格が安く査定されている作品が”KIKU”で13万円、最も買取価格が高く査定されている作品が”Bald Eagle, from Endangered Species”で1500万円でした。そして査定買取価格が表示されずに要お問い合わせの作品が21品ありました。毛沢東をモチーフにした”MAO”や”ミックジャガー”、”ベートーベン”、”レーニン”、”ムーンウォーク”、”マリリンモンロー”をモチーフにした作品が高く売れるようです。執筆者の観測では絶滅危惧種の動物を描いた絶滅危惧種シリーズが高い査定買取価格で表示されていることが多いと思いました。
これまでアンディ・ウォーホルという偉大なアーティストについて解説してきました。とても有名な方なので知っている情報もたくさんあったでしょうが、その波瀾万丈な人生など何か初めて知ったこともあったのではないでしょうか。また、取り上げた作品以外にも非常に興味深いものが多く、価格的に手を出せない方も多いとは思いますが、そういった点でもより深掘りしたいアーティストだったと思います。もしそう感じていただけたなら嬉しいです。