2024.11.22
作家名
2024.11.22
皆さんは篠田桃紅というアーティストをご存知ですか?
篠田桃紅は日本の美術家であり、版画家、エッセイストです。
篠田桃紅は100歳を超えても現役として、墨による抽象作品を描き、たぐいまれな感性でつづられた随筆は多くの読者に支持されています。
伝統の枠から抜け出して新しい書の試みを展開する「前衛書ブーム」が巻き起こる中、一人アメリカにわたり世界的な評価を受け、独自の世界を確立していきました。
晩年まで「もっといいものを」と筆を執り、作品の制作をされていました。
目次
1913年、中国・大連にて7人兄弟の5番目として生まれました。幼い頃に一家は日本に戻り岐阜で暮らし始めます。
5歳の時、父親の手ほどきで初めて墨と筆に触れ、以降独学で書を極めていきます。
戦時中に重い結核を患いますが、戦後なんとか回復し東京へ戻りました。その後は自由に制作したいと思い、1947年からは「書」の世界から踏み出し、抽象的な作品の制作を開始しました。1950年代に入り、書道美術院に数年間所属し、墨象(ぼくしょう、前衛書道)の作家らと交流を持ちました。
1956年に渡米し、ニューヨークを拠点にボストン、シカゴ、パリ、シンシナティ他で個展を開催します。ニューヨークを中心として高まっていた抽象表現主義から影響を受け、篠田桃紅の抽象表現主義と、墨象の融合した独自の芸術がアメリカにおいて高く評価されました。
1958年に帰国した後は、壁画や壁書、レリーフといった建築にかかわる仕事や、東京の芝にある増上寺大本堂の襖絵などの大作に関わる一方で、リトグラフ(版画の技法の1つ)や装丁、題字を手がけるなど活動は多岐にわたっています。
1979年に随筆集を手がけ「墨いろ」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。
80年代から90年代にかけての作品は、線はより洗練された間を構成しており、面と線は寄り添い朱はあくまで高貴に、墨は静かに鋭く、あるいは控えめに層をなしていきます。
2005年には「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれるなど、晩年まで精力的な活動をつづけました。
2007年には、皇室専用の新型車両の内装壁画を制作しました。
2013年には、回顧展「篠田桃紅 百の譜1950-1960’s」が岐阜県美術館、岐阜現代美術館、桃紅美術空間などで開催されました。また2019年から開催されていた個展「篠田桃紅 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」は大規模なものだったそうです。また、同年に発売された著書「一〇三歳になってわかったこと」は幅広い年代の女性に支持され、ベストセラーになりました。
2014年5月に沼津市役所特別創設室に1966年に納入した壁画「泉」が、30年以上存在が忘れられた状態から再発見されたことが報道されました。
2018年に「篠田桃紅 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」展が開催され、その中で篠田桃紅の従弟で映画監督の篠田正浩が、自身から見た篠田桃紅とその作品について講話があったそうです。
2021年3月1日に107歳だった篠田桃紅は東京の病院で亡くなりました。
2022年には東京オペラシティアートギャラリーにおいて大規模回顧展「篠田桃紅展」が開催されました。
大正時代生まれの画家で、現代でも画家として身を立てること自体がすでに難しいことなのですが、当時の社会背景を踏まえると、女性でありながらそれをやり遂げた篠田桃紅が、いかに意志の強い女性だあったのか想像に難しくありません。彼女のその作品には、そんな彼女の生き様が表れているといえます。
幼いころから手本をまねるだけの書道に違和感を感じていた篠田桃紅は、30代頃に墨を用いた抽象的な作品を制作します。墨象(前衛書道)の作家たちや、アメリカ抽象表現主義の芸術に出会ったことで、それらを融合させた独自の芸術を開花させます。
文字を解体し、そこから現れた線や形を墨の濃淡などで表現する作品は、色彩が、黒、金、赤などに限定されておりシンプルです。線や形が作品の中で結びつくオリジナリティあふれる作品は、日本のみならず海外からも高く評価されています。
篠田桃紅の代表的な作品を紹介します。
この作品は国立京都国際会館2階のロビー、会議場RoomAの前にあるレリーフ壁です。1965年に制作され、墨や銀泥などで彩色された躍動感あふれる作品です。
これは先の「展開」とともに制作されました。同じ国立京都国際会館2階の会議場RoomBの入り口横にある、モノクロの壁画です。
2012年に制作した作品です。この作品は100歳を目前にして制作した記念碑的作品といえるでしょう。60×240の和紙に描かれたこの作品は、金地の中央にほぼ垂直にひかれた細い銀泥が静かな緊張感を伝えています。
この作品は「永劫」とともに作成されました。背景が金地で表現される「永劫」に対して、この作品は背景が銀地になっています。斜めに入った金泥の線がまるで閃光のように静けさを破る、ダイナミックな大型作品です。
4枚のシリーズになっており、岐阜県美術館で並んで展示されています。薄い長方形や濃い長方形などで描かれており、作品に描かれている四角たちが転がっていくような軽やかさを感じられる作品です。
篠田桃紅の作品はどのようなところで見られるのでしょうか。
「永劫」と「一瞬」は岐阜現代美術館で鑑賞できます。
岐阜現代美術館は、コレクションの中心に篠田桃紅作品を据えており、800展を超える作品が体系的に鑑賞できる貴重な美術館です。また、定期的に開かれるコンサートも、岐阜現代美術館の見どころの一つです。
篠田桃紅の父親と祖母は岐阜県出身で、その縁から関市役所7階は「篠田桃紅美術空間」という名の美術館になっています。こちらでも、篠田桃紅の作品を見ることができます。
海外の美術館でも作品が所蔵されています。メトロポリタン美術館、ニューヨーク現代美術館、グッゲンハイム美術館、スミソニアン博物館、大英博物館、ブルックリン美術館などで鑑賞することができます。
日本の皇室も作品をコレクションしていることで知られ、皇居御食堂や皇室専用の新型車両に収蔵されているそうです。
ここまでは、篠田桃紅の経歴や作品に関してご紹介いたしました。ここからは篠田桃紅の作品を所有されている方や所有しようと思っている方に向けて、買取や査定売却についての説明に移ります。
篠田桃紅の国内オークションにおける落札価格は近年好調に推移しており、高額で落札された作品もあります。
2019年には「無題」という作品が780万円で落札されました。これはマレットジャパンのアートオークションに出品されたもので、銀地紙本、墨、彩色による大型の作品になります。落札予想価格200~300万円を大幅に上回る高額の落札で注目が集まりました。
2022年には「ANCIENT POEM」という作品が50万円で落札されました。
ニューアート・エストウェストオークションズによって行われたスプリングセールにおいて、落札されたものです。予想価格の2倍である50万円で落札されました。この作品は、1982年に制作された手彩色とリトグラフによる作品です。
リトグラフ作品を購入する際、作家本人のサインがある作品は高額となりますが、作者の死後に遺族などが作品を刷ることがあります。その場合はスタンプが押され、本人が作成したものより大幅に価値が下がります。
篠田桃紅の作品の高価買取のポイントは、赤と金が使われていること、全体のバランスに加えて、赤や金などの明るい色味が使われていると、買取価格が上がります。
原画の場合は「篠田桃紅鑑定委員会」の登録証書が必要になるそうですが、無くても査定はしてもらえるようです。
版画は多くがリトグラフですが、手彩色が行われているものもあります。その場合は買取価格が高くなるようです。また、真作かどうかがという点も、高価買取の査定に関係してきます。「Twilight」は、真作保証があったため、多少のやけが確認されていたにも関わらず、30万円で買取されたことがあります。売却する際はその点も注意してみたら良いでしょう。
買取のタイミングによっても異なるようなので、買取業者に連絡をしてみるのも良いでしょう。
篠田桃紅は絵画作品だけでなく、著書でもその才能を発揮しています。2017年の『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』や、2015年の『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』はベストセラーになっています。
篠田桃紅の死去後に、オークションへ作品の出品が増えており、平均的な落札価格は400万円前後であり、国内だけでなく海外でも取引され人気です。晩年まで活躍した作品は今後価値が上がっていくだろうと予想されています。
本記事では、篠田桃紅の経歴をはじめ、作品の特徴や査定、売却などについて紹介しました。
篠田桃紅は世界に影響を与えた日本人の2人のうちの1人です。もう1人は葛飾北斎です。
生涯、自分らしい生き方を貫き、凛としてかつ酒脱な語り口の発言や文章を通してファンになった人も多いのではないでしょうか。柔らかく決然とした自信に満ちた作品の造形は篠田桃紅そのものという気もします。
また伝統を型破って斬新なことをはじめ、女性として世間の中でも目立って功績を残したりと、時代背景を考えてもとても希少な存在であった篠田桃紅の生き様は、とてもかっこよく彼女の存在が誇らしく思えます。
日本を代表する女流画家である彼女の作品をこれから所有しようと思っている方、手放そうと思っている方も、篠田桃紅の作品の査定・売却に関して、買取業者に問い合わせてみると良いでしょう。