2023.11.26

難波田龍起のアートとは 買取は可能?

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難波田龍起(なんばた たつおき)は、戦後、日本の抽象画家として活動したアーティストです。

彼は、高村光太郎に出会いアートに関心をもつようになり、その後アヴァンギャルド芸術家クラブ結成の一員に加わります。また、自由美術家協会の創設にも参加、晩年まで意欲的に独自の世界観を追求してきました。

今回は、そんな難波田龍起のアートについて深堀します。

難波田龍起の経歴

難波田龍起は、1905(明治38)年に北海道・旭川に誕生します。

翌年には一家で上京し、1923(大正12)年早稲田第一高等学院に入学しています。

そして、彼にとって大きな転機となったのは高村光太郎と知り合った経験です。高村光太郎と一緒に鑑賞したゴッホの作品に難波田龍起は強く感動し、それをキッカケとして画家を目指すことになります。

1928(昭和03)年には、高村光太郎から紹介された川島理一郎に師事します。その後、松本竣介、鶴岡政男らとも親交をもち、1937(昭和12)年には、自由美術家協会結成に参加しています。

また、1946(昭和21)年には日本美術会発足に参加。1947(昭和22)年、第1回美術団体連合展、第1回日本アンデパンダン展に出品をしています。

1956(昭和31)年  「世界・今日の美術展」に出品。

1957(昭和32)年 には、文化服装学院の講師として活動の場を広げました。

1971(昭和46)年には紺綬褒章を受章。その後1976、1981、1983、1985年にも受章しています。

しかし、1974(昭和49)年 、難波田龍起にとって思わぬ悲劇が起こります。次男の史男が瀬戸内海でフェリーから落ちて亡くなってしまったのです。さらに翌年には長男・紀夫も亡くなっています。

1982(昭和57)年には、北海道立旭川美術館、北海道立近代美術館で「形象の詩人 難波田龍起展」が開催されています。

1987(昭和62)年、東京国立近代美術館において「今日の作家 難波田龍起展」が開催。

1994(平成6)年には、世田谷美術館で「難波田龍起展 1954年以後~抽象の展開・生命の輝き」が開催されます。

1996(平成8)年 難波田龍起は、文化功労者に顕彰されています。

そして、難波田龍起は、1997(平成9)年 11月8日肺炎のため死去(享年92)します。彼は、死の間際までアートを描き続ける人生を送り続けていました。

高村光太郎との出会い

高村光太郎とは、「道程」「智恵子抄」と言った詩集を世に残した人物ですが、高村光太郎自身は自身の本質は詩ではなく彫刻にあると語っています。高村光太郎は、近代彫刻の父とも呼ばれるロダンに影響を受け、精神を表現する存在感のあるアート作品を多数制作しています。

難波田龍起は、近所にアトリエを構えていた高村光太郎の下へ自分自身が書いた詩を持ち込むなど、頻繁に訪れています。1917(昭和2)年には高村光太郎に誘われ、上野の東京府美術館で開催されていた「仏蘭西西洋美術展」へ訪れ、そこでゴッホの「鰊(ニシン)」に大きな衝撃を受け、自分自身も生涯にわたりアーティストの仕事をしていくことを決意します。ゴッホの「鰊(ニシン)」には、遠近感があまり感じない点や扱うモチーフなどに親近感を感じたのでしょうか。

抽象画と向き合い抽象画を超越し

「鰊(ニシン)」、そして、「高村光太郎との出会い」、それは、抽象画とは程遠い世界だと感じる方々も多いことでしょう。

難波田龍起は、ゴッホの「鰊」、高村光太郎に影響を受けたものの、結果、抽象画の道を選ぶことになります。それは時代背景からして仕方のないことだったのかもしれません。抽象画は反美学的姿勢であり、既成の絵画の枠組みの否定です。難波田龍起も、抽象画を支持するアーティストと同じ気持ちで、必然的に反抗の意識をもっていたことでしょう。

しかし、さらに、難波田龍起は、抽象画に対しても反抗の意識をもちます。単に冷たい抽象画のままであれば、自己の世界観とまるで乖離した自身ではないアートを描くことになってしまったのではないでしょうか。

自分自身が描きたいと思っているのは、高村光太郎の詩のようなアートであり、ゴッホの「鰊」のようなやさしいアートだったはずです。

高村光太郎、ゴッホの「鰊」。そして、抽象画との出会い。

運命的に抽象画で難波田龍起の世界観を埋めてしまったからこそ、その画像から滲み出してくるかなしみやあたたかさ、人間らしさがあります。

難波田龍起のアートを鑑賞する人たちを感動させてくれるのであれば、彼の選んだ抽象画という選択肢は間違いではなかったと言えます。

難波田龍起のアートとは

難波田龍起は、高村光太郎の影響で絵画の道を歩き出すことになります。

その後抽象画に独自世界を追求、まさに、難波田龍起は日本の近代絵画史の流れとともに歩んだアーティストと言っていいでしょう。

彼の人生を通して見てみると、順風満帆なアーティスト生活を送ったのかといえばそうでもありません。いつも試行錯誤を繰り返し、日本的であるオリジナルの抽象世界を開拓してきました。

難波田龍起は、90歳という年齢になってからも、アートの取り組み意欲を喪失させることはなく、その痕跡はアート界の軌跡とも評されています。

「生の記録」は、自身の生の記録である

難波田龍起が描いた「生の記録」というタイトルは、まさに彼自身の生の記録であり、そのアートは決してその平たい画像に留まることなく、超越し、まるで宇宙まで広がりわたるかのようです。

彼にとっての「抽象」は既成概念にとらわれ彼の独自性を閉じ込めてしまう要素も秘めています。しかし、彼のアートは抽象をも乗り越え、ありのまま、のびのびと外へと拡散されていきます。

難波田龍起の晩年のアートを鑑賞すれば、老いとは、自己の身体であったり、精神をも超え出ていくことであるかのように感じられます。

難波田龍起は、現在に逆らうアーティストである

難波田龍起は、欧米にのびひろがる近代アートを考察することからはじめ、実際にアートを描くときには、自分自身に向き合う意識をもち自己のアートを表現することに努めています。

アンフォルメルや欧米の抽象主義、また、アクションペインティングアートを描くのであれば別に誰か他のアーティストが描けばいい。自らが描かなければならないと思っていることこそ、既存のアートをなぞるのではなく逆らうアートであると体現しているのです。

難波田龍起はあからさまに欧米かぶれになったわけでもなく、また、多くのアーティストたちがしたように無抵抗にそこにあるアートの形に依存してしまったわけでもなく、ふるさと旭川の風土や自然に培われた自身の「根底にあるもの」を確認し、追従ではない、自らの表現の仕方を見いだしていくことになります。

また、難波田龍起は、70歳あたりの年齢のころには、二人の息子を相次いで亡くしています。その出来事は、彼自身をより内観の方角へ向かわせることになります。

次男史男の死の後に難波田龍起が描いた「幽」と「幻」、長男紀夫を亡くした翌年完成させた「西方浄土2」には、人影であったり、自然の造形を想像できるやわらかな形象が浮かび上がっているのがわかります。

難波田龍起はアートとずっと関わり続け、その過ごした時間は「生」と「死」について、じっと長く向き合う時間だったともいうことができます。

精神が解放されるとき

人間は生きている限り、死を免れることはできません。死の観念はピッタリと私達の身体にいつだって貼りついているのです。

しかし、アート作品と向き合うことで、死から解放されることはできないけど、その不条理から精神だけを抽出して解放することができるのではないか……。そう考えたのかもしれません

戦後、復興を急ぐ日本の中で難波田龍起のエネルギーも当然のように彼の視線を近代へと向かわせていました。そして、彼は近代建築のラインの美しさに魅了され自身のアートにも取り入れようとします。

しかしそうは言っても、水平、垂直のラインと限定的である色を使用したモンドリアンの描く「冷たい(cool/froid)抽象画」は、単に都市を見据え自然と対峙するものであり、難波田龍起のアート観に容易に受け止められるものではありませんでした。

モンドリアンが描き出したものが冷たい抽象画であれば、難波田龍起のアートは、あたたかみのある抽象画です。

難波田龍起のアートは、高村幸太郎に影響を受けてアーティストの世界に没頭したこと、自身の根底にあるものはふるさと旭川の風土や自然であること、息子の死の体験などが関与して到底冷たくはなりえなかったのです。難波田龍起のあたたかみのある抽象画からは、ポエムのような声もどこからか聞こえてくるようです。

コレクター寺田小太郎との出会い

コレクターである寺田小太郎も、難波田龍起のそのような生き方を高く評価しています。

寺田小太郎は、東京オペラシティアートギャラリーに、難波田アート作品を多く収蔵した難波田龍起を支持したひとりです。(寺田コレクション)

難波田龍起は、人生の晩年と呼ばれる時期において、1点の長さが4メートルにおよんだ「生の記録」の4点作品の完成に至り、それ以外にも、「生の記録:断章A」「生の記録:断章B」「生の記録:断章C」など作品に取り組んでいます。

まさに、その年齢の人物が描いたとは到底思うことができないほどの奇跡を感じとることができます。

また、難波田龍起に奇跡的なアート活動ができた背景には、コレクターである寺田小太郎との出会いが少なからず関与していたことも推測することができます。

かつて日本庭園の設計者として「日本的」について独自思考を深めた寺田小太郎。そんなとき、寺田小太郎は難波田龍起のアートと出会い、彼の「禅」に存在する思想のようなものを感じ取ったということです。

難波田龍起のアートに惚れ込んだ寺田小太郎は、難波田龍起の55点に及ぶ「石窟の時間」シリーズが発表された展覧会においてほとんどの作品を買い占めることになります。

それ以降も、彼は難波田龍起のアート作品を集中的に収集し続けます。このようなコレクターの存在があるからこそ、難波田龍起は、晩年になってからも「もっと描こう」というモチベーションを高めることができたのでしょう。

難波田龍起の家族の話しによれば、彼は、一連の作品を晩年になってもたった1ヶ月という猛スピードで完成させていたということです。

難波田龍起のアートを売却査定して欲しい

現在、難波田龍起のアートを所有していて、売却査定して欲しいと思っている方々もいらっしゃることでしょう。

彼の作品は晩年に描かれたものよりも若い時に描いた作品の方が、評価が高い傾向があります。

抽象画に関しては100万円超えの売却査定額がつくこともあります。また、難波田龍起はキャンバス作品以外にも水彩や版画も制作しているためそのような作品は高い買取額がつく可能性が高いです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は、難波田龍起のアートについて解説しました。

難波田龍起のアートの根底には、ふるさとの匂いも感じることができ、まさに、独自世界を追求した日本らしい抽象画と言っていいのではないでしょうか。

そこにあるのは、冷たい抽象画ではなく、あたたかみも、人間らしさも感じとることができる抽象画です。

難波田龍起の人物像が透けてみえるような抽象画は人気で、現在高い買取額を期待することができます。



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