2024.11.30
作家名
2024.11.30
荻須 高徳(おぎす たかのり、仏:Takanori Oguiss、1901年11月30日 – 1986年10月14日)は、大正から昭和時代の洋画家。 愛知県中島郡稲ヶ谷村(現・稲沢市高見町井堀)生まれ。小磯良平は東京美術学校(現東京芸術大学)の同級生でした。新制作協会会員。
目次
1901年 愛知県中島郡(現・稲沢市)生まれ
1921年 上京し川端画学校に学び、藤島武二に師事。
1927年 東京美術学校卒業、渡仏。
1928年、署名入りのOGUISS、サロン・ドートンヌ初入選
1940年 日本に帰国
1944年 横江美代子と結婚。
1948年 戦後初の日本人画家として再び渡仏。
1956年 レジオンドヌール勲章を受章
1972年 勲三等旭日重光章受章、中日文化賞受賞
1974年 パリ市よりヴェルメイユ勲章を受章
1981年 文化功労者に顕彰されます
1982年 フランス国立造幣局が、荻須高徳の肖像を浮き彫りにしたメダリオンを発行。
1983年 稲沢市荻須記念美術館開館
1986年:パリのアトリエで制作中に死去、享年84歳。文化勲章受章
荻巣高徳(1901-1986)は東京美術学校に学び、1927年に渡仏しました。
彼はルーヴル美術館の絵画や、ギャラリーにあるルオー、ヴラマンク、ユトリロなどの同時代の画家の作品にインスピレーションを受け、本物の油絵を貪欲に吸収しました。
荻巣は前年の第二次世界大戦の勃発により、1940年に帰国を余儀なくされましたが、戦後まだ日本人の海外旅行が困難だった1948年に、日本人画家として初めてフランスに帰国しました。彼は1986年に亡くなるまで、合計半世紀以上パリで画家として暮らしました。
スタイリッシュなタッチで描かれた即興のドローイングは、荻須が生きた時代のパリの雰囲気と、荻須が魅了され、深く愛した歴史あるヨーロッパの空気を生き生きと伝えます。
最初は真っ暗に感じたパリですが、パリは空も建物も歩道も様々な表情を持つシックなグレーの街です。古い建物の中で人々の暮らしや、人生の軌跡を温かいまなざしで見つめた荻須作品は、人の心と歴史を魅力的に描き、日本のみならず多くの人々に長く愛されてきました。
1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の息子として生まれます。愛知県立第三中学校(現・愛知県立津島高等学校)を経て、1921年に上京。小石川(現文京区)の川端画学校に入学し、藤島武二に師事しました。同年、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学。1926年(大正15年)、同校卒業後渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとともにモランスケッチ旅行に行き、佐伯の死に立ち会いました。
荻須は画家としてのキャリアのほとんどをフランスの首都パリで過ごしました。初期の作品は佐伯祐三と同じくヴラマンクやユトリロの影響を受け、パリの街角や店先を荒々しいタッチで描いた作品が多かったのですが、後期はより彫刻的で優しいタッチになりました。パリの都市風景を表現するために作曲されました。
荻須が画家として最初に成功したのは、1928年にサロン・ドートンヌに入選したときでした。1934年にジュネーブで初の個展を開催。この頃から作風も佐伯と見分けがつかないようなものから、落ち着いた色調と沈黙を持ったものへと変わっていったようです。
1936年(昭和11年)にはサロン・ドートンヌの会員に推薦され、フランスでの地位を確立したかに思われましたが、1939年(昭和14年)に諸事情により一時帰国を余儀なくされました。戦況悪化へ。この際、サロン・ドートンヌに出品された作品はパリ市によって購入されました。帰国後は新創作派協会会員となります。
戦後の1948年(昭和23年)、戦後日本画家として初めてフランスへの入国を許可され、再び渡仏しました。 彼は死ぬまでパリで働き続けることになります。1981年(昭和56年)、フランス国立造幣局は荻巣高徳の肖像を浮き彫りにしたメダリオンを発行しました。後に大統領となるシラク・パリ市長(当時)は彼を「最もフランスらしい日本人」と評しました。
同年、文化功労者に選ばれ、10年ぶりの帰国が最後の祖国の土を踏むこととなりました。帰国後は故郷の稲沢を訪れ、稲沢市立荻須記念美術館の建設現場を訪れました。
1986年10月14日、パリのスタジオで作業中に倒れ、84歳で死去しました。死の約1週間前に文化勲章受章が決定したため、11月3日に没日に遡って同勲章が授与されました。
彼の墓はパリのモンマルトル墓地にあります。
サン・タンドレ・デ・ザール広場 (1938) (ポンピドゥー・センター所蔵)
「モンマルトルの裏側」(1940年)(東京国立近代美術館蔵)
パリの屋根 (1950)
『金色のカタツムリ』(1978年)(稲沢市荻須記念美術館蔵)
1932年頃、油絵、No.10
暗く荒々しいタッチで描かれた貴重な初期の油彩画です。荻須の戦前の作品は、渡仏時に頼った先輩画家・佐伯祐三の影響を強く受けています。フランスで一緒に過ごした期間は1年足らずだったが、一緒にパリの下町の建物を描いたり、スケッチ旅行に出かけたりするなど、佐伯さんからの影響は大きかったはずです。
1977年、リトグラフ、150部 46×56.5cm
荻巣は人物をほとんど描きません。しかし不思議なことに、そこに住んでいる人の温かさは感じられます。パリの風景の中に何気ない路地や通りがあるからかもしれません。
1986年、リトグラフ、250部 47×38.5cm
パリを愛した画家の晩年の作品。荻須はこのリトグラフの最終刷りを終えた後、急逝しました。この作品はパリ市立美術館で開催された荻巣の遺作展にも出品されました。
1956年 レジオン・ド・ヌール勲章
1972年 勲三等旭日中綬章、中日文化賞
1974年 メダイユ・ド・ヴェルメイユ
1981年 文化功労者
1986年 文化勲章
25歳で渡仏してから84歳で亡くなるまで、彼はフランスに住み、歴史を刻む古い石造りの建物やパリの裏通り、名もない食料品店などを描きました。彼の作品では人物を描くことはほとんどありませんが、その絵の質感やそこに漂う空気感からは、そこに住む人々の生活や息づかいが不思議と感じられます。
長年フランスに暮らし創作活動を続けた荻須は、外国人としてではなくフランスに住む住人として生まれたのかもしれません。荻須高徳は国内の多くの美術館に収蔵されており、近年その評価はますます高まっています。
リビングやお部屋に飾りたいという要望も多く、肉筆画から版画まで在庫を強化し、幅広い商品を取り揃えております。
ギャラリーでは、荻須家の長女・荻須恵美子の鑑定書付き油絵を取り扱っております。
カタログレゾネに掲載されているプリントのセレクションをご用意しています。初めてオギス作品をお持ちの方から、これからオギス作品をコレクションしたい方まで、安心して作品を購入できます(Editions d’Art de Franconie発行のカタログ・レゾネ)。
曇り空に照らされたパリの路地裏や古い建物を描くことを好んだ荻須は、ヴェネツィアに長期滞在して制作することも多かったようです。
パリとは対照的に、明るい陽光が降り注ぐ街ヴェネツィア。
ここでも荻須は、豪華な宮殿や観光名所のような外観ではなく、古い赤壁や川沿いにきらめく建物など、人の温かさあふれる街の奥深くに焦点を当てています。流れる運河の作品を描きました。
荻須高徳作品購入時のポイント、荻須高徳の作風|リトグラフの数々
荻巣高徳といえば、〈パリの風景〉をモチーフにした絵画が最も有名でしょう。彼は、肖像画や静物画を見つけるのが難しいほど、一貫してヨーロッパの風景を描き続けています。 ヴラマンクのフォービズム(野獣派)※の影響か、パリの喧騒が荒々しいタッチで表現されており、人物の描写がほとんどないため、静寂、孤独、空虚といった哲学的な雰囲気を漂わせています。しかし、その荒々しいタッチは徐々に落ち着いた作風に落ち着いていきます。油絵のほかに水彩画の作品も出品されており、書き具合によっては水彩画でも高く評価されることもあります。
作品の技術によって評価が変わってくるので、順番に見ていきましょう。
※1905年頃にパリで生まれた革新的な表現手法の名称。細部の簡略化、平面的な描写、鮮やかな色彩が特徴。 ヴラマンクやマティスが代表的な作家です。
これはキャンバスに描かれた油絵です。大きさや成分、産地にもよりますが、購入価格は数百万円からとなります。
ひどいダメージやオギスらしくない構図の場合は数十万円かかることもあります。
油絵と比べてよく市場で見かけます。色の有無や絵柄の状態で判断します。 紙の性質上、キャンバス作品に比べて劣化しやすいため、保存状態も重要なポイントです。
版画作品(リトグラフなど)は油絵に比べて市場価値が著しく低くなります。バブル期から2000年頃までは評価されていたが、近年は厳しい状況にあります。
荻須高徳の版画作品の中で最も評価が高いのが『靴屋メトロ』。赤をメインに使った作品は高値で査定される傾向にありますが、作品によって価格が異なる傾向があります。 版画は画集に比べて色が抜けていることが多く、特に赤が抜けやすいので注意が必要です。
荻須高徳の筆跡(油絵など)は鑑定が必要です
油絵などのオリジナル作品の場合は、〈荻須恵美子〉による真作証明書が必要となります。もちろん生前に荻須高徳を手に入れた人には鑑定書はありません。ただし、鑑定書を取得していない作品は正規の流通ルートに乗せることが難しいため、鑑定が必要となる場合がほとんどです。日本人作家ですが、鑑定士が海外にいるため、通常より時間がかかる印象です。日本に鑑定機関がある場合は1~2ヶ月程度で取得できますが、海外の場合は取得までの期間が読みづらいです。今後売却する可能性があるのであれば、まずは査定だけを受けてみるのも良いかもしれません。
戦後、荻須はフランスへの入国を許可され、すぐにフランスに戻り、パリを中心に活動を再開しました。彼は1951年にサロン・ド・メに招待され、サロン・ド・チュイルリーやヨーロッパ中の個展で作品を発表しました。
日仏文化交流にも貢献し、1954年には日本で第5回毎日芸術賞特別賞を受賞しました。1955年には神奈川県立近代美術館、翌年にはブリヂストン美術館で回顧展が開催されました。
荻須の作品はフランス国民に愛され続け、1956年にはフランス政府から同国の最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与され、1974年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章しました。
1982年、フランス国立造幣局は荻須の肖像を浮き彫りにしたメダリオンを発行し、当時のパリ市長で後にフランス大統領となったシラクさんは彼を「最もフランス的な日本人」と評しました。