2024.11.30
作家名
2024.11.30
横尾忠則は、グラフィック・デザイナー、イラストレーターとして商業デザインを数々発表し続けた日本を代表する現代アーティストです。
また、その後、画家宣言をし、様々絵画作品を描いてきました。
さらに、写真、エッセイ、小説執筆……などなど幅広く活動をし、様々な分野から知名度を博するアーティストです。
横尾忠則は、常に第一線でアートを誕生させ、作品であったり、彼の活動自体が、2000年以降、改めて評価されています。
今回は、そんな横尾忠則のアートを深堀します。
目次
横尾忠則は1936年兵庫県に生まれました。
56年以降、神戸新聞社においてグラフィックデザイナーとして活動、59年に独立します。
唐十郎、寺山修司、土方巽などといった舞台アートのポスターなどを多く手がけ、69年には、パリ青年ビエンナーレ版画部門大賞を受賞しています。
また、72年にはニューヨーク近代美術館において個展を開催しています。
その後、横尾忠則は、ピカソに衝撃を受け、画家宣言をします。
洞窟であったり、滝などのごくごく自然な風景から、街じゅうのY字路を描くシリーズであったり、俳優やミュージシャンなどスターの肖像画に至るまで、多彩な才能を発揮してきた人物です。
横尾忠則は、小さいころマンガ雑誌にマンガなどを投稿するようになり、それが彼のアーティストとしてのスタートでした。
一方で彼の子ども時代には戦争があり、戦争中の体験も生々しく現在まで残っています。彼は、戦争という非日常の体験が日常となり、自分自身がその中で暮らしていかなければならないことに対しての混乱した精神がアートに対して影響を与えていると言います。
また、横尾忠則は高校を卒業して、美大の受験を断念します。彼が選んだ道は印刷屋であり、そこから、グラフィック・デザイナーとしてのキャリアがスタートします。
1964年に独立し、彼は、「三島由紀夫」、「寺山修司」、「篠山紀信」、「唐十郎」、「高倉健」、「大島渚」など……と言ったそうそうたる文化人の面々と交流を交わし、アートに深みをもたらすとともに、より注目を集める現代アーティストとして進化していきます。
まさに、横尾忠則は自身の活動によって、グラフィック・デザインというカテゴリーの枠を取っ払い、超えてしまったかのようです。
その後、横尾忠則は海外からも多くの評価を得、様々な海外アーティストらとの交流を深めていくことになります。
「ジョン・ネイスン」、「アンディ・ウォーホル」、「ジャスパー・ジョーンズ」、「ヘンリー・ミラー」、「ポール・デイビス」……などと言ったアーティストとつながり、アートを通し、日本とのパイプを築いてきました。
ピカソに影響を受けたというアーティストは日本にも多くいますが、横尾忠則もそのひとりです。
横尾忠則は、ピカソのような生き様、「創造」と「人生」を一体化することができるのであれば、それが自分自身の求めているアートの進む道でもあるのではないか……と考えるようになります。
また、1980年には、新表現主義のアーティストとして新しいスタートラインに立つことになります。それ以降は、独自ならではのアート表現を追求し、現代アートの領域をも超越したアートを次々と誕生させています。
横尾忠則のアートにおいて、欠かすことができないものが「死」に対しての観念です。
それは戦争体験であり、また、彼は、高齢の養父母が亡くなってしまうかもしれない恐怖感にいつも襲われ続けていたということです。
彼が育った兵庫県多可郡西脇町は、実際に空襲を免れることはできたのですが、都会の神戸であったり、明石の空襲で赤く染まってしまった空、廃墟化した大阪の街の風景を彼は目の当たりにしています。
自分自身はかろうじて生き延びることができているのだけれど、周囲には確実に死が存在し、刻々と自分の側に寄り添おうとしている……。自分自身は死という支配者によってかろうじて生かされているだけなのではないだろうか……。
我々は、だからこそ、死の囚われ人のままでいることもできるし、死ぬまでの限られた期間、息づくこともできるのです。それはまさに、人間がより生き生きと生きることができる体験です。
横尾忠則は、あるとき、戦争体験に神々しい感じであったり、ファンタジー性を感じたということを語っています。
それでも戦争体験は、脳裏から消えることではありません。死が傍に寄り添い、死までのあいだ生き生きと生きることを決めた横尾忠則の行動の先には、それでも阻止することができない死が神様のように立ちはだかったのかもしれません。
「死がそこに存在しているからこそ生きなければならない」という意思が彼には生まれます。
そんな横尾忠則のアートには、カラフルな色彩があり、その色使いは、日常生活よりもずっと刺激的であり挑戦的です。
横尾忠則は、日常における死の表現者であり、常に生と死の狭間にたたずむ迷えるアーティストです。
死を表現しようと思っても、死自体のことは誰も知ることができません。横尾忠則自身、自分自身はアートの中で、死をわかったようなふりをし続けているのでは……とも語っています。
1966年には、劇団状況劇場の公演、腰巻お仙」のポスターを制作し、南天子画廊の個展において絵画「ピンク・ガールズ」シリーズを発表します。
ピンク・ガールズでは、決して趣味がいいと思えないようなどぎつい色彩にトライし、浮世絵版画であったり錦絵など民衆アートに通じる世俗的、土着的であったり、エロチックであられもない女性など、いわばその領域はアート領域ではないというタブーに対して挑戦を仕掛けてきます。
こんなものはアートと言っていいものか。
しかし、日常生活を見下ろしている神様のような死の存在を側において、その領域はアート領域ではないというタブー視に一体なんの意味があるというのでしょうか。大事なのは、日常のあらゆるものを足掛かりとしてでも、生き生きと生き続けることの方です。
こんなものはアートと言っていいものか。と批判する人たちは、死の観念のない世界でのうのうと暮らし、平面的場所で横尾忠則をただ教科書的に批判しているだけではないのか。
三島由紀夫も、横尾忠則のアートを高く評価したひとりです。
三島由紀夫は、自身の雑誌連載の挿絵に横尾忠則のアートを起用します。
また、三島自身が演出を務めた新作歌舞伎のポスターデザインであったり、三島由紀夫をモデルに細江英公が撮影した写真集「新輯薔薇刑」のデザインを横尾忠則に任せることになります。
三島由紀夫は、そのとき、横尾忠則のデザインを、「俺の涅槃像」と評しています。
その二日後には、三島由紀夫は割腹自殺をしています。
三島由紀夫は、最後に横尾忠則に電話をかけ、「君もそろそろインドに行く時が来たのではないか……」ということを語ったということです。
インドとは……、死を学ぶ場所なのではなく、あえて生を生き生きと生きる場所である。それは、まさに横尾忠則のアートそのものにつながる観念です。
横尾忠則は、その後、禅寺で修行をしたり、三島由紀夫の言葉に従い、インドに旅行することもしてきました。
その後、横尾忠則は、より精神世界に傾倒し、仏教、キリスト教などと言ったものに関連した様々な図像であったり、光を放ちながら浮かんでいる謎の物体など、宇宙的なヴィジョンに挑戦し、見ることができないものをアートで露出・現実化させることを仕掛けていきます。
1960年代後半から70年にかけて、横尾忠則のアートは日本だけでなく海外でも評価されるようになります。
ジャスパー・ジョーンズであったり、アンディー・ウォーホルなどと言ったポップ・アーティストたちとも交流を深めたのもこのころです。
当時、「商業デザイン」と「現代アート」の分野は明確に区別されて、共通点をなかなか見つけることができないような時代だったのですが、それでも横尾忠則は、海外のアーティストたちと、接点をもつ機会を多く得たということです。
それは、横尾忠則のアートが商業デザインという枠を大きく超える力をもち、ジャスパー・ジョーンズや、アンディー・ウォーホルらにも訴えかける大きな刺激が存在していたからでしょう。
横尾忠則のアートは甘いようで全然甘くなく、カラフルであり、心に響くような嫌悪感ももたらす刺激的色彩のアートであるかもしれません。
そのような意味では、ジャスパー・ジョーンズやアンディー・ウォーホルらそうそうたるアーティストですら、現存するアートをただ破壊する思惑で描き続けているアーティストであるのかもしれません。
横尾忠則に存在していたのは、アートのカテゴリーも超えた、死に取りつかれた世界観であり、宇宙観です。
横尾忠則は、アートについてこのように語っています。
自分自身は、宿命というか……、絵を描かなければならないという使命を持ってこの世に生まれてきた。
死と、形があるものはいつか壊れるという、終末的、ハルマゲドン的な感覚が奥底にある。
そして、いつもその時描いている作品がベストアートで、それが自分自身の遺作だと思って描いていると。
しかし、描き終われば、こんなアートではまだまだ……だと思い、また次のアートを描き続けている……。
また、横尾忠則は、デザイナーから画家に転身した時は「呪われたのか……」と思ったということです。
しかし、現在は呪われたという思いではなく、祝福されているという思いに変わったということです。
祝福されるため、結局は地獄を通らなければならない……。
絵を描くというのもひとつの信仰に過ぎないのかもしれません。
結局は人間は死んでいってしまうのだけれど、そのときはカラカラになった状態で行ければいい……。
自分自身に存在する魂が、現世で執着を残さず、向こうへ行くことができるように、描いて描いて描いて、描き続けていく。
まさに、その横尾忠則の生き様は、よく死ぬことはよく生きること、よく生きることはよく死ぬことであることを私達に教えてくれているかのようです。
現在、横尾忠則のアートを所有していて、売却査定して欲しいという方々もいらっしゃることでしょう。
横尾忠則のコラージュのようなカラフルなポスター作品であったり、サイケデリック、かつ風刺性が高いアート作品は、現在人気で高い売却査定額につながりやすいです。
また、版画は、おしゃれなインテリアとしてとても人気で需要の高いスキルです。ヴィンテージのポスター絵柄は、高額買取されています。
などと言った買取相場で取引がされています。
いかがでしょうか。今回は横尾忠則のアートについて解説しました。
横尾忠則は、カラフルなアートを描き、インテリアとしてもおしゃれだと思っている方々が大勢いらっしゃることでしょう。
しかし、横尾忠則のアートは、ぴりりと辛いアートであり、その色彩は、目に痛く、刺激的でもあります。
そんなアートは、ストレスの多い現代社会であるからこそ、求められている色彩なのかもしれません。
何十年前から、現在に至るまで、横尾忠則のアートの色彩は輝きを放ち続けています。
横尾忠則のアートをお部屋に飾れば、まさにアートの底知れぬパワーを感じることができるでしょう。