2024.11.30
作家名
2024.11.30
織田広比古(おだ ひろひこ)は、織田廣喜の子として誕生し、父織田廣喜のアート性をなぞりながらも、かつ、その延長線上に見える様々な光・未来・希望をクリエーションし、独自アートを追求するアーティストです。
今回は、そんな織田広比古のアートを深堀します。
織田広比古は、1953年に東京都で、織田廣喜の長男として誕生します。
織田広比古は、23歳に東京造形大学を卒業し、同じ年には、銀座能楽堂の画廊に三人展を開催し、そこでアート作品が出品されます。
その後、兜屋画廊にも個展で自身の作品が発表され、その一年後には、ギンザのサヱグサ、渋谷画廊で個展が開催されています。
同じ年には、織田広比古は、日動画廊「現代の裸婦展」に入選をしています。
また、二科展初出品特選、MOA美術館賞、フジテレビ賞、パリ賞も受賞しています。
その後、織田広比古は、パリに移住し、グループ展を開催しています。
それからも、日本はアート活動をするための舞台となり、文芸春秋 画廊、画廊香月にて個展を開催、東武百貨店にて個展を開催、そして、二科展で会友賞を受賞しています。
また、札幌三越であったり、そごう横浜店、三越においても個展を開催し、安井賞展にも出品しています。
ステップスギャラリー、Pigga、そごう川口店、銀座三越において個展を開催。
湘南西脇画廊、小倉玉屋において個展を開催。
ギャラリーフォルテにおいて個展を開催。
安田火災選抜選奨展に出品。
株式会社いつき美術において個展を開催。
八木橋百貨店において個展を開催。
そして、松屋銀座において個展を開催した一年後、織田広比古は、父織田廣喜よりも早く、パリにて亡くなっています。
父・織田廣喜(おだ ひろき)は、決して裕福とは言うことができない家庭で育ち、遊び道具として、近所にいた画家を真似ることをして、絵を学ぶことをはじめています。
1931年に、ゴッホに触発され、「ひまわり」を描き、福岡県展で入選をしています。
また、本格的に絵を学ぶために1933年に上京、日本美術学校西洋画科に入学します。
その後、二科展に出品を続けて「噴水とマヌカン(シャイヨー宮の噴水)」が、文部省買い上げとなっています。
第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」が総理大臣賞を受賞、このアート作品も文部省買い上げとなっています。
織田廣喜は、アート活動をしている最中何度かフランスへと渡っています。織田廣喜も、織田広比古も決して無視してならないのは、フランス情緒です。
例えば、「サンドニーの少女」では、一見、不気味さを感じるものの、それを打ち消す
かのような色合いは、まさに日本的ではなく異国情緒に強く影響を受けたかのようです。
そこでは日本的に描けばドロドロとしそうな官能の世界を、いとも鮮やかにさらっと風景画のように描かくことがされています。
織田広比古は、繊細な女性と、パリの風景を得意分野として描き続けているアーティストです。
織田広比古のアートは、父・織田廣喜と比較すれば随分似た雰囲気が漂っています。
しかし、織田広比古のアートは、父・織田廣喜のアートとは当然違います。
織田広比古は、父・織田廣喜のアートをキャンバスとして使用したからこそ、そこから延長線上のものを悠々と時間をかけ追い求めることができ、さらに独自のアート性を発展させることができたのです。
織田広比古、父・織田廣喜ともに、画風は、写実的ではなく女性はかなりデフォルメされ描かれています。
織田広比古のアートが父・織田廣喜の延長線上に存在しているという言い方をすれば、より織田広比古のアートの方が女性に対しての様々な深みを感じとることができます。
織田広比古のアートでは女性たちが多く登場していますが、その中でも裸の女性たちが多く扱われています。
女性たちの服が脱がされてしまったのも父・織田廣喜のアートの延長線上に存在しているアートゆえ必然だったのかもしれません。
しかし、裸の女といえば、エロチックで猥褻めいたものをイメージする人たちもいるのかもしれませんが、織田広比古の描く裸の女は、そんなニオイがそれ程強い訳ではありません。
エロチックでないのか……と言えばそれも違うと言わざるを得ないですが、織田広比古の描く裸の女には、エロチックな視点が歪められてしまうかのように、コケティッシュにも見え、漫画チックにも見えてしまうのです。
さらに、リアルなものであったり、イラスト風のものであったり、さらに、豊満な女性の身体をなおさら強調したものであったり、シンプルな色合いのものであったり……と、いろいろなデフォルメされた女性像を突き付けられ、鑑賞する人たちはただ困惑してしまうかのようです。そこにはポエムも感じることができますし、幻想的情緒も感じることができます。まさに、織田広比古のアートは、鑑賞する人たちにとって万華鏡のごとく変化するアートとも言っていいのではないでしょうか。
そして、織田広比古のアートは、様々なものが自在に混在するアートという言い方をしてもいいでしょう。
織田広比古のアートは、決してエロチックでない訳でもありませんが。様々な不純物の混じったエロチックに対して、人たちは、性的に高揚することもありませんし、そのようなものが露呈されれば、ただ鑑賞する人たちは人間に存在している本性を突き付けられたような気持ちになるまでではないでしょうか。ものを食べている女性を見ているような感じで、エロチックに対しても冷静なまなざしを送ることができるのです。
また、人たちは、織田広比古のアートを見て、夢を見ているような気持ちにもなることでしょう。それは、深層に存在している心理が現実の場所まで引っ張り出されてきたかのような感覚です。
織田広比古のアートは、刺激的でありながらも、私達の深層を外に引っ張り出してくれるかのような感覚もあり、それが意外と心地よい体験であり、ついお部屋に1枚、織田広比古のアートを飾りたいという気持ちにもなってしまうのではないでしょうか。
もちろん織田広比古のアートは裸婦だけではありません。しかし、裸婦でない女性たちからも、ポエムチックで音楽的な情感が漂っているかのようです。
バイオリンのような弦楽器を奏でている作品も、織田広比古ワールドにはよく登場しています。女性たちの服装はほとんどがカラフルなドレスです。
女性たちは、月、川、池を背景にして楽しそうに、夢見心地でいるかのように演奏をしています。
また、女性たちの顔は、シンプルであり、色気は感じさせません。大人の女性というよりは、あどけない少女のようです。
「空まで行きたい」は、織田広比古の魅力的なアート作品のひとつです。
織田広比古のアートには、メランコリーな色合いの中に、暗く塞ぎこんでしまうような感じではなく、ロマンチックを感じる情景があります。
また、繊細な女性が描かれ、一緒に画の中に納まっているのは、楽器や月と言った優雅なモチーフです。
そこに浮かび上がるものは、父・織田廣喜のアートと同じような叙情性です。やわらかい色合いに浮かぶ、決して明るい訳ではないほのかな光は、延々と奥底へと道が続いていることを照らしてくれているかのようです。まさにその道とは、エレガントなアート世界へとつながる道です。
外灯の光であったり夜空の星がきらめく街を背景とし、美女たちの乗ったクルマがハイウェイを突き抜けていきます。
という言い方をすれば、既にみなさんの頭の中には、日常的風景がこびりつき離れなくなってしまうのでしょうけど。織田広比古のアートに存在しているのは、日常的であるような非日常です。こびりついたイメージのまま織田広比古のアートを見れば、まさに、大きな違いに驚愕してしまうことでしょう。
アートは、幻想的道にもつながり、こうまで織田広比古の個性を主張することができる場所なのです。
異様などす黒い感じでもなく、一歩手前でファンタジックな雰囲気にも包まれ、やっぱり織田広比古のアートは、幻想的な不思議さが漂っています。
登場人物たちに共通するのは細い腕と足、さらには極度に小さい手は死んだ人形かのようであり、そこにはアンバランスなスタイルがアピールされています。
また、髪の毛は、黄金色の輝きを放ち、輪郭がボケた女性たちの姿をこちら側で明確化され、それは彼女を取り囲むオーラのようです。
大きく足を広げた助手席の女性であったり、陰部を露出する男装の女性……などはかなり大胆であり、エロチックです。しかし、不思議なことに、そのエロチックな雰囲気もどこかに隠されてしまうかのような強い織田広比古マジックがあります。
安っぽい女性たちという感じでもなく、パリの一夜を謳歌している彼女たちには、セレブ的高貴さも感じとることができます。
卑猥、エログロナンセンス……。そのようなものでもなく織田広比古のアートに存在するのは、清楚であり、ロマンチック、さらに優美なエロチシズムです。
織田広比古のアート作品「月とおっぱい」では、椅子に座った裸の女が、豊満な乳房を月へと差し出しているような感じで、乳房からは限りない母乳が放出しています。
女性は、日本髪をゆっているような感じであり、大正ロマンという感じでしょうか。
大正時代には、このような感じで人前で大胆に乳房を出し、乳飲み子に乳を与えている光景があり、それをなんらエロチシズムと感じず、人たちは見ていたことでしょう。
そう思えば、無茶苦茶エロチックなアートであったとしても、それ程ではない……という気持ちにもなってきます。
そして、アートの画風は、相変わらず和的ではなく洋風であり、フランスチックです。日本では、思い切り卑猥ととらえられるかもしれないけど、海外の風土に置き換えれば、別にこんな程度は大したことはないという気持ちにもなってしまうのです。
女性の乳房から乳が出るのは、エロチックではなく人間の本能です。そして、乳は放物線を描き、土へと放出され自然に還っていくかのようです。
女性たちも、ごくごく野性的動物に属し、自然から生まれ自然と帰化すべきものと思えば、どこに私達はエロスを感じとることができるのでしょうか。
しかし、織田広比古のアートは、エロチックを置き去りにする訳でもありません。女性の背後からは、枝のような手が忍び寄っているではありませんか。
それはまるで、木の枝のようです。いえ、それは単に木の枝だったのかもしれません……。
現在、織田広比古のアートを所有していて売却査定して欲しいと思っている方々もいらっしゃることでしょう。
織田広比古の人気アートは、まるで作品自体から音楽が流れてくるかのような幻想的風景を、流れるようなタッチで描かれています。
女性も印象的であり、迷える子羊を許してくれる女神のような包容力を感じさせることもあります。
織田広比古のアートは、女性と、かつ音楽をイメージさせる作品が現在高額売却査定の傾向があります。
父・織田広喜が描いている女性像とは大きく違いますが、女性を中心に描いている点は同じです。ちょっと以前は、父の方が、織田広比古と比較して売却査定額が高い傾向がありましたが、それも現在は逆転している状況です。
いかがでしょうか。今回は、織田広比古のアートについて解説しました。
織田広比古のアートは、まさに、織田廣喜の延長線上を行き、父以上に奥深さを感じとることができるアートです。
女体に対して、どんどん猥褻が助長される時代です。
そして、女性を守るためにいろいろ法律が出来たりする訳ですが……。
しかし、もっと俯瞰した目で見れば、猥褻も猥褻でなくなる隙間を見つけることができてしまうものです。
織田広比古ワールドにおいて、猥褻が優雅さの中に混在するアートを楽しむことができます。猥褻、エロチックとはもっとオシャレで、うちとけられるものであったのかもしれません。